・・・衣食の計に追われている窮民の苦痛に比べれば、六十何銭かを歎ずるのは勿論贅沢の沙汰であろう。けれども苦痛そのものは窮民も彼も同じことである。いや、むしろ窮民よりも鋭い神経を持っている彼は一層の苦痛をなめなければならぬ。窮民は、――必ずしも窮民・・・ 芥川竜之介 「十円札」
・・・万一それから刃傷沙汰にでもなった日には、板倉家七千石は、そのまま「お取りつぶし」になってしまう。殷鑑は遠からず、堀田稲葉の喧嘩にあるではないか。 林右衛門は、こう思うと、居ても立っても、いられないような心もちがした。しかし彼に云わせると・・・ 芥川竜之介 「忠義」
・・・どんな偉い学者であれ、思想家であれ、運動家であれ、頭領であれ、第四階級な労働者たることなしに、第四階級に何者をか寄与すると思ったら、それは明らかに僭上沙汰である。第四階級はその人たちのむだな努力によってかき乱されるのほかはあるまい。・・・ 有島武郎 「宣言一つ」
・・・青森の親元へ沙汰をする、手当薬療、息子の腰が立つと、手が切れた。むかいに来た親は、善知鳥、うとうと、なきながら子をくわえて皈って行く。片翼になって大道に倒れた裸の浜猫を、ぼての魚屋が拾ってくれ、いまは三河島辺で、そのばさら屋の阿媽だ、と煮こ・・・ 泉鏡花 「開扉一妖帖」
・・・本人も語らず、またかかる善根功徳、人が咎めるどころの沙汰ではない、もとより起居に念仏を唱える者さえある、船で題目を念ずるに仔細は無かろう。 されば今宵も例に依って、船の舳を乗返した。 腰を捻って、艪柄を取って、一ツおすと、岸を放れ、・・・ 泉鏡花 「葛飾砂子」
・・・それもこれもつまりおとよさんのために、省作も深田にいなかったのだから、おとよさんが親に棄てられてもと覚悟したのは決して浮気な沙汰ではない。現に斎藤でさえ、わたしがこの間、逢ったら、 いや腹立つどころではない、僕も一人には死なれ一人には去・・・ 伊藤左千夫 「春の潮」
・・・今の道徳からいったら人情本の常套の団円たる妻妾の三曲合奏というような歓楽は顰蹙すべき沙汰の限りだが、江戸時代には富豪の家庭の美くしい理想であったのだ。 が、諸藩の勤番の田舎侍やお江戸見物の杢十田五作の買妓にはこの江戸情調が欠けていたので・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
・・・中には薄々感づいて沼南の口占を引いて見たものもあったが、その日になっても何とも沙汰がないので、一日社務に服して家へ帰ると、留守宅に社は解散したから明日から出社に及ばないという葉書が届いているんだから呆気に取られてしまった。 いやしくも沼・・・ 内田魯庵 「三十年前の島田沼南」
・・・不断は御無沙汰ばかりしているくせに、自分の用があると早速こうしてねえ、本当に何という身勝手でしょう」「まあこちらへお上んなさいよ、そこじゃ御挨拶も出来ませんから」「ええ、それじゃ御免なさいましよ、御遠慮なしに」とお光の後について座敷・・・ 小栗風葉 「深川女房」
その時、私には六十三銭しか持ち合せがなかったのです。 十銭白銅六つ一銭銅貨三つ。それだけを握って、大阪から東京まで線路伝いに歩いて行こうと思ったのでした。思えば正気の沙汰ではない。が、むこう見ずはもともと私にとっては生れつきの気性・・・ 織田作之助 「アド・バルーン」
出典:青空文庫