・・・その恰好は贔屓眼に見ても、大川の水へ没するよりは、蚊帳へはいるのに適当していた。 空虚の舞台にはしばらくの間、波の音を思わせるらしい、大太鼓の音がするだけだった。と、たちまち一方から、盲人が一人歩いて来た。盲人は杖をつき立てながら、その・・・ 芥川竜之介 「将軍」
・・・ 中 雪曇りの空が、いつの間にか、霙まじりの雨をふらせて、狭い往来を文字通り、脛を没する泥濘に満そうとしている、ある寒い日の午後の事であった。李小二は丁度、商売から帰る所で、例の通り、鼠を入れた嚢を肩にかけ・・・ 芥川竜之介 「仙人」
・・・あいにくの吹き降りで、不二見村の往還から寺の門まで行く路が、文字通りくつを没するほどぬかっていたが、その春雨にぬれた大覇王樹が、青い杓子をべたべたのばしながら、もの静かな庫裡を後ろにして、夏目先生の「草枕」の一節を思い出させたのは、今でも歴・・・ 芥川竜之介 「樗牛の事」
・・・ 自分は小山にこの際の自分の感情を語りながら行くと、一条の流れ、薄暗い林の奥から音もなく走り出でまた林の奥に没する畔に来た。一個の橋がある。見るかげもなく破れて、ほとんど墜ちそうにしている。『下手な画工が描きそうな橋だねエ』と自分は・・・ 国木田独歩 「小春」
・・・あの人の夜霧に没する痩せたうしろ姿を見送り、私は両肩をしゃくって、くるりと廻れ右して、下宿に帰って来た。なにがなしに悲しい。女性とは、所詮、ある窮極点に立てば、女性同士で抱きあって泣きたくなるものなのか。私は自身を不憫なものとは思わない。け・・・ 太宰治 「女の決闘」
・・・シロオテは、日の没するまで語りつづけたのである。 日が暮れて、訊問もおわってから、白石はシロオテをその獄舎に訪れた。ひろい獄舎を厚い板で三つに区切ってあって、その西の一間にシロオテがいた。赤い紙を剪って十字を作り、それを西の壁に貼り・・・ 太宰治 「地球図」
・・・そうしてつぼみの頭が水面まで達すると茎が傾いてつぼみは再び水中に没する。そうして充分延び切ってから再び頭をもたげて水面に現われ、そうして成熟し切った花冠を開くということである。つまり、最初にまず水面の所在を測定し確かめておいてから開花の準備・・・ 寺田寅彦 「藤棚の陰から」
・・・ あるいは門前の川が汎濫して道路を浸している時に、ひざまでも没する水の中をわたり歩いていると、水の冷たさが腿から腹にしみ渡って来る、そうしてからだじゅうがぞくぞくして来ると同時にまた例の笑いが突発する。 いずれの場合にも、普通いかな・・・ 寺田寅彦 「笑い」
・・・ 薄の高さは、腰を没するほどに延びて、左右から、幅、尺足らずの路を蔽うている。身を横にしても、草に触れずに進む訳には行かぬ。触れれば雨に濡れた灰がつく。圭さんも碌さんも、白地の浴衣に、白の股引に、足袋と脚絆だけを紺にして、濡れた薄をがさ・・・ 夏目漱石 「二百十日」
・・・此智此徳の間に頭出頭没する者は此智此徳を知ることはできぬ。何人であっても赤裸々たる自己の本体に立ち返り、一たび懸崖に手を撒して絶後に蘇った者でなければこれを知ることはできぬ、即ち深く愚禿の愚禿たる所以を味い得たもののみこれを知ることができる・・・ 西田幾多郎 「愚禿親鸞」
出典:青空文庫