・・・たとえば実験的科学の研究者がその研究の対象とする物象に直面している際には、ちょうど敵と組み打ちしているように一刻の油断もならない。いつ何時意外な現象が飛び出して来るかもわからないのみならず、眼前に起こっている現象の中から一つの「事実」を抽出・・・ 寺田寅彦 「空想日録」
・・・ 秋山大尉は、そうと油断さしておいて、或日××河へ飛込んだがだ。河畔の柳の樹に馬を繋いで、鉛筆で遺書を書いてそいつを鞍に挟んでおいて、自分は鉄橋を渉って真中からどぶんと飛込んじゃった。残念でならんがだ。」爺さんは調子に乗って来ると、時々・・・ 徳田秋声 「躯」
・・・ 送別会にもでなかった高島が、福岡へ発ってしまってから、三吉は母親にそういった。「急に、また、何でや?」 油断をつかれたように、母親はびっくりした。出発の前晩まで、母親はいろいろにくどいた。父親はだまっていたが、勿論賛成ではなか・・・ 徳永直 「白い道」
・・・女子たる者は決して油断す可らず。 扨女大学の離縁法は右に記したる七去にして、民法親族編第八百十二条に、夫婦の一方は左の場合に限り離婚の訴を提起することを得と記して、一 配偶者カ重婚ヲ為シタルトキ二 妻カ姦通ヲ為シタルトキ三 ・・・ 福沢諭吉 「女大学評論」
・・・ 人の智恵は、善悪にかかわらず、思のほかに成長するものなり。油断大敵、用心せざるべからず。ゆえにかの瓜の蔓も、いつの間にかは変性して、やや茄子の木の形をなしたるに、瓜はいぜんとして瓜たることもあらん。あるいは阿多福が思をこらして容を装う・・・ 福沢諭吉 「学者安心論」
・・・小十郎は油断なく銃を構えて打つばかりにして近寄って行ったら熊は両手をあげて叫んだ。「おまえは何がほしくておれを殺すんだ」「ああ、おれはお前の毛皮と、胆のほかにはなんにもいらない。それも町へ持って行ってひどく高く売れるというのではない・・・ 宮沢賢治 「なめとこ山の熊」
・・・ 成程これは余分なルーブルをポケットに入れている人間にとっては油断ならぬ空間的、時間的環境だ。少くともここに押しよせた連中は二十分の停車時間の間に、たった一人ののぼせた売子から箱かインク・スタンドか、或はYのようにモスクワから狙いをつけ・・・ 宮本百合子 「新しきシベリアを横切る」
・・・ 兎と亀のかけくらで、兎が油断して昼寝したり、亀が身の程を知って、ノタノタ一生懸命に歩きつづけるということは、この世の中に確にある行為だ。けれども、何年、何の時代に、どういう情勢のもとに起ったことだという意味での具体性のないのが、アレゴ・・・ 宮本百合子 「新たなプロレタリア文学」
・・・此等は随分博文館の天下をも争いかねぬ面魂であるから、樗牛も油断することは出来まい。その外帝国文学という方面には、堂々たる東京帝国大学の威を借って、血気壮な若武者達が、その数幾千万ということを知らず、入り代り立ち代り、壇に登って伎を演じて居る・・・ 森鴎外 「鴎外漁史とは誰ぞ」
・・・初のうち油断なく庇っていた親鳥も、大きくなるに連れて構わなくなる。石田は雛を畳の上に持って来て米を遣る。段々馴れて手掌に載せた米を啄むようになる。又少し日が立って、石田が役所から帰って机の前に据わると、庭に遊んでいたのが、走って縁に上って来・・・ 森鴎外 「鶏」
出典:青空文庫