・・・ と目通りで、真鍮の壺をコツコツと叩く指が、掌掛けて、油煙で真黒。 頭髪を長くして、きちんと分けて、額にふらふらと捌いた、女難なきにしもあらずなのが、渡世となれば是非も無い。「石油が待てしばしもなく、※じゃござりません。唯今、鼻・・・ 泉鏡花 「露肆」
・・・窓は閉めて、空気の通う所といっては階子の上り口のみであるから、ランプの油煙や、人の匂や、変に生暖い悪臭い蒸れた気がムーッと来る。薄暗い二間には、襤褸布団に裹って十人近くも寝ているようだ。まだ睡つかぬ者は、頭を挙げて新入の私を訝しそうに眺めた・・・ 小栗風葉 「世間師」
・・・ かんてらから黒い油煙が立っている、その間を村の者町の者十数人駈け廻わってわめいている。いろいろの野菜が彼方此方に積んで並べてある。これが小さな野菜市、小さな糶売場である。 日が暮れるとすぐ寝てしまう家があるかと思うと夜の二時ごろま・・・ 国木田独歩 「武蔵野」
・・・夜の三時ごろまでも表の人通りが絶えず、カンテラの油煙が渦巻いていた。明け方近くなっても時々郵便局の馬車がけたたましい鈴の音を立てて三原橋のあたりを通って行った。奥の間の主人主婦の世界は徳川時代とそんなに違わないように見えた。主婦は江戸で生ま・・・ 寺田寅彦 「銀座アルプス」
・・・ 八「唐土にても墨張とて学問にあまり精を入れしゆえにつりし蚊帳が油煙にてまっ黒になりしという故事に引きくらべて文盲儒者の不性に身持ちをして人に誇るものあり。いかに学問するとても顔や手を洗うひまのなき事やはある。」(柳里恭・・・ 寺田寅彦 「人の言葉――自分の言葉」
・・・カンテラの油煙に籠められた縁日の夜の空は堀割に近き町において殊に色美しく見られる。自分は毎年のようにこの年の夏も東京に居残りはしまいか。 もう八月も十日近くなった……明治四十三年八月・・・ 永井荷風 「夏の町」
・・・鬼の国から吹き上げる風が石の壁の破れ目を通って小やかなカンテラを煽るからたださえ暗い室の天井も四隅も煤色の油煙で渦巻いて動いているように見える。幽かに聞えた歌の音は窖中にいる一人の声に相違ない。歌の主は腕を高くまくって、大きな斧を轆轤の砥石・・・ 夏目漱石 「倫敦塔」
・・・ 空気はムンムンして、人々は天ぷらの油煙を吸い込んでいた。 一方には、一方の事は、全で無関係であった。勝手に雲が飛び、勝手に油虫どもが這い廻っているようであった。 人々は、眼を上げて、世界の出来事を見ると、地獄と極楽との絵を重ね・・・ 葉山嘉樹 「乳色の靄」
・・・ 燭台の蝋燭は心が長く燃え出し、油煙が黒く上ッて、燈は暗し数行虞氏の涙という風情だ。 吉里の涙に咽ぶ声がやや途切れたところで、西宮はさぴたを拭っていた手を止めて口を開いた。「私しゃ気の毒でたまらない。実に察しる。これで、平田も心・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・まだ少しあかるいのに、青いアセチレンや、油煙を長く引くカンテラがたくさんともって、その二階には奇麗な絵看板がたくさんかけてあったのだ。その看板のうしろから、さっきからのいい音が起っていたのだ。看板の中には、さっきキスを投げた子が、二疋の馬に・・・ 宮沢賢治 「黄いろのトマト」
出典:青空文庫