・・・こうしてお前を泣かせるのも決して親自身のためでなくみんなお前の行く末思うての事だ。えいか、親の考えだから必ずえいとは限らんが、親は年をとっていろいろ経験がある、お前は賢くても若い。それでわが子の思うようにばかりさせないのは、これも親として一・・・ 伊藤左千夫 「春の潮」
・・・私の一生には私を泣かせるような素晴らしい女はもはや現われないだろうが、しかしよしんばつまらない女とでも泣けた時代が羨ましいのである。ひとの羨むような美女でも、もし彼女がウェーブかセットを掛けた直後、なまなましい色気が端正な髪や生え際から漂っ・・・ 織田作之助 「中毒」
・・・何かを云いだすと却って、私を泣かせると思ったのだろう。 三 入営してから、一週間ばかりが、実に長かった。一カ月いや、二カ月にも値した。軍隊で一日を過すことは容易でない。朝、起きてから、日夕点呼をすまして、袋のような・・・ 黒島伝治 「入営前後」
・・・ 山家の娘らしく成って行く鞠子は、とは言え親達を泣かせるばかりでも無かった。夕飯後に、鞠子は人形を抱いて来て親達に見せた。そして、「お一つ、笑って御覧」などと言って、その人形をアヤして見せた。「かァさん、かさん――やくらか、やくや―・・・ 島崎藤村 「岩石の間」
・・・人を苦しめ泣かせる行為は結局自分をいじめ殺す行為であるような気もするのである。 この数日間の植物界見物は実におもしろかった。もっともこんなことは、植物学者、あるいは学者とまでは行かずとも、多少植物通の人にとっては、あまりにも平凡な周知の・・・ 寺田寅彦 「沓掛より」
・・・宗教類似の信仰に夢中になって家族を泣かせるおやじもあれば、あるいは干戈を動かして悔いない王者もあったようである。 芸術でも哲学でも宗教でも、それが人間の人間としての顕在的実践的な活動の原動力としてはたらくときにはじめて現実的の意義があり・・・ 寺田寅彦 「コーヒー哲学序説」
・・・そうして実によく見物を泣かせるのである。そういう目的で作られたこの四幕物は、そういうものとしての目的を九分通りまでは達していると思われた。とにかく「嘆きの天使」を見ているときのようにあぶなっかしい感じはちっともなくて楽に見られる。それだけに・・・ 寺田寅彦 「自由画稿」
・・・むやみに泣かせるなどは幼稚だと思う。 それでは人間に同情がない作物を称して写生文家の文章というように思われる。しかしそう思うのは誤謬である。親は小児に対して無慈悲ではない、冷刻でもない。無論同情がある。同情はあるけれども駄菓子を落した小・・・ 夏目漱石 「写生文」
出典:青空文庫