・・・すると突然聞えて来たのは、婆さんの罵る声に交った、支那人の女の子の泣き声です。日本人はその声を聞くが早いか、一股に二三段ずつ、薄暗い梯子を駈け上りました。そうして婆さんの部屋の戸を力一ぱい叩き出しました。 戸は直ぐに開きました。が、日本・・・ 芥川竜之介 「アグニの神」
・・・そうして、半分泣き声で、早口に何かしゃべり立てます。切れ切れに、語が耳へはいる所では、万一娘に逃げられたら、自分がどんなひどい目に遇うかも知れないと、こう云っているらしいのでございますな。が、こっちもここにいては命にかかわると云う時でござい・・・ 芥川竜之介 「運」
・・・ほっと安心したと思うと、もう夢中で私は泣声を立てながら、「助けてくれえ」 といって砂浜を気狂いのように駈けずり廻りました。見るとMは遥かむこうの方で私と同じようなことをしています。私は駈けずりまわりながらも妹の方を見ることを忘れはし・・・ 有島武郎 「溺れかけた兄妹」
・・・縊り殺されそうな泣き声が反響もなく風に吹きちぎられて遠く流れて行った。 やがて畦道が二つになる所で笠井は立停った。「この道をな、こう行くと左手にさえて小屋が見えようがの。な」 仁右衛門は黒い地平線をすかして見ながら、耳に手を置き・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・……(寒い風だよ、ちょぼ一風と田越村一番の若衆が、泣声を立てる、大根の煮える、富士おろし、西北風の烈しい夕暮に、いそがしいのと、寒いのに、向うみずに、がたりと、門の戸をしめた勢で、軒に釣った鳥籠をぐゎたり、バタンと撥返した。アッと思うと、中・・・ 泉鏡花 「二、三羽――十二、三羽」
・・・民子、秋子、雪子らの泣き声は耳にはいった。妻は自分を見るや泣き声を絞って、何だってもう浮いていたんですものどうしてえいやらわからないけれど、隣の人が藁火であたためなければっていうもんですから、これで生き返るでしょうか……。自分はすぐに奈々子・・・ 伊藤左千夫 「奈々子」
・・・下の座敷から年上の子の泣き声が聞えた。つづいて年下の子が泣き出した。細君は急いで下りて行った。「あれやさかい厭になってしまう。親子四人の為めに僅かの給料で毎日々々こき使われ、帰って晩酌でも一杯思う時は、半分小児の守りや。養子の身はつらい・・・ 岩野泡鳴 「戦話」
・・・ また、泣き声をたてるものもありませんでした。 笛の中は、ただ一本の空洞の竹にしかすぎませんでした。 それでも二郎は、なお思いあきらめることができなかったのです。 やはり、一つ一つ無理に、穴をつついているうちに、その笛は、ひ・・・ 小川未明 「赤い船のお客」
・・・と女房はついに泣声を立てて詰寄せた。「慰物にしたんかしねえんか、そんなことあ考えてもみねえから自分でも分らねえ、どうともお前の方で好なように取りねえ、昨日は昨日、今日は今日よ。お前が何と言ったところで、俺てえものがここに根を据えていられ・・・ 小栗風葉 「世間師」
・・・暫らくすると、女の泣き声がきこえた。男はぶつぶつした声でなだめていた。しまいには男も半泣きの声になった。女はヒステリックになにごとか叫んでいた。 夕闇が私の部屋に流れ込んで来た。いきなり男の歌声がした。他愛もない流行歌だった。下手糞なの・・・ 織田作之助 「秋深き」
出典:青空文庫