・・・「ほんとに済みません。泣面などして。あの常さんて男、何といういやな人でしょう」 民子は襷掛け僕はシャツに肩を脱いで一心に採って三時間ばかりの間に七分通り片づけてしまった。もう跡はわけがないから弁当にしようということにして桐の蔭に戻る・・・ 伊藤左千夫 「野菊の墓」
・・・と、樋口はさびしい笑いをもらしてちょっと振り向きましたが、すぐまた、下を向いてしまいました、 なぜかおッ母さんは、泣き面です、そして私をしかるように「窪田さん、そんなものをごらんになるならあっちへ持っていらっしゃい」「いいかい君、」・・・ 国木田独歩 「あの時分」
・・・彼は鼻も口も一しょになってしまうような泣き面をした。「俺は殺され度くない。いつ、そんな殺されるような悪いことをしたんだ!」と眼は訴えていた。「俺は生きられるだけ生きたいんだ! 朝鮮人だって、生きる権利は持っている筈だ!」そう云っているように・・・ 黒島伝治 「穴」
・・・正行が鼻血を出したり、陳平が泣面をしたりするという騒ぎが毎々でした。細川はそういうことは仕ない大人のような小児でした。此二人は後にまた中学校でも落合ったことがあるので能くおぼえて居ました。 また此外に矢張りこれも同級の男で野崎というのが・・・ 幸田露伴 「少年時代」
・・・と言いかけて、泣き面になった。 それは、実にまずい顔つきであった。あまりにまずくて、あわれであった。「あ、ごめんなさい。一緒に出ましょう。」 女は幽かに首肯き、立って、それから、はなをかんだ。 一緒に外へ出て、「僕は野蛮・・・ 太宰治 「父」
・・・ 爺さんはそこまで話して来ると、目を屡瞬いて、泣面をかきそうな顔を、じっと押堪えているらしく、皺の多い筋肉が、微かに動いていた。煙管を持つ手や、立てている膝頭のわなわな戦いているのも、向合っている主の目によく見えた。「忘れもしねえ、・・・ 徳田秋声 「躯」
・・・とにかく三十も越えて男一人前に髭まで生えて居るような奴が、声をあげて止度もなしにあんあんと泣く、その泣面と来たらば醜いとも可笑しいとも言いようがないのである。ここに到って昔の我を顧みて見ると、甚だ意気地のない次第、一方から言えば甚だ色気のな・・・ 正岡子規 「病牀苦語」
・・・「桃龍はんの泣き面」「ゲンコツぁんと蕪はん」――「ゲンコツぁんと蕪はん」は彼等が並んで歩いている後姿を描いたのだが、滑稽な中によく特徴を捕えてあった。「上手いな」「……ええもん見せたげまひょか」 手提袋から、彼女は手帖を一つ出し・・・ 宮本百合子 「高台寺」
・・・「私は、長い間泣き面をして、その修正し難い奇怪事を眺めていた。」どうにも仕方なく遂に「想像力でもって修正することにした。」ゴーリキイは鉛筆をとり、先ず家の正面のすべての蛇腹と屋根の棟飾の上に烏や鳩、雀などを描いた。窓の前の地べたの上には洋傘・・・ 宮本百合子 「マクシム・ゴーリキイの伝記」
出典:青空文庫