・・・がその本体の前にじり/\引摺り込まれて行く、泥沼に脚を取られたように刻々と陥没しつゝある――そのことだけは解っている。けれどもすっかり陥没し切るまでには、案外時がかゝるものかも知れないし、またその間にどんな思いがけない救いの手が出て来るかも・・・ 葛西善蔵 「子をつれて」
・・・ですもの。泥沼を、きっと一つずつ持って居ります。それは、はっきり言えるのです。だって、女には、一日一日が全部ですもの。男とちがう。死後も考えない。思索も、無い。一刻一刻の、美しさの完成だけを願って居ります。生活を、生活の感触を、溺愛いたしま・・・ 太宰治 「皮膚と心」
・・・丙は時として荊棘の小道のかなたに広大な沃野を発見する見込みがあるが、そのかわり不幸にして底なしの泥沼に足を踏み込んだり、思わぬ陥穽にはまって憂き目を見ることもある。三種の型のどれがいけないと言うわけではない。それぞれの型の学者が、それぞれの・・・ 寺田寅彦 「自由画稿」
・・・……際限もなく広い浅い泥沼のような所に紅鶴の群れがいっぱいいると思ったら、それは夢であった。時計を見ると四時であるのに周囲が騒がしい。甲板へ出て見るともうポートセイドに着いていた。夜明け前の市街は暑そうなかわいた霧を浴びている。粗末な家屋の・・・ 寺田寅彦 「旅日記から(明治四十二年)」
・・・個性だけでは知らず知らずの間に落ち込みやすい苟安自適の泥沼から引きずり出して、再び目をこすって新しい目で世界を見直し、そうして新しい甦生の道へ駒の頭を向け直させるような指導者としての役目をつとめるのがまさにこの定座であるように思われるのであ・・・ 寺田寅彦 「連句雑俎」
・・・おまけに、なんだか底の知れない泥沼に踏み込みでもしたように、深谷の挙動が疑われ出した。 深谷はカッキリ、就寝ラッパ――その中学は一切をラッパでやった――が鳴ると同時にコツコツと、二階から下りてきた。 安岡は全く眠ったふうを装った。が・・・ 葉山嘉樹 「死屍を食う男」
・・・一日ごとに桃いろのカードも緑のカードもだんだんつぶされて、泥沼に変わるのでした。馬はたびたびぴしゃっと泥水をはねあげて、みんなの顔へ打ちつけました。一つの沼ばたけがすめばすぐ次の沼ばたけへはいるのでした。一日がとても長くて、しまいには歩いて・・・ 宮沢賢治 「グスコーブドリの伝記」
・・・どんな母が、妻が、そして愛人たちが、またふたたび愛する息子、大事な父親、将来の夫を、どこか知れない山の奥、ジャングルの泥沼に死なせてよいと思っているでしょう。 戦争というものは、平和を愛し、勤勉に働いて家庭生活を愛している人民の一生を、・・・ 宮本百合子 「国際婦人デーへのメッセージ」
・・・一九二〔〇〕年この年から足かけ四年ばかりは泥沼時代だった。小市民的な排他的な両親の家庭から脱出したつもりで四辺を見まわしたら、自分と対手とのおちこんでいるのは、やっぱりケチな、狭い、人間的燃焼の不足な家庭の中だった。・・・ 宮本百合子 「年譜」
・・・ この実例だけでも、ブルジョア文学の領域内で、異国趣味を基礎とする国際主義は民族主義の泥沼にはまってついにファッショ化するものだということが十分明瞭に示されている。 資本主義のイデオロギーはそれが必然の過程として植民地搾取を包含する・・・ 宮本百合子 「プロレタリア文学における国際的主題について」
出典:青空文庫