・・・ 中 雪曇りの空が、いつの間にか、霙まじりの雨をふらせて、狭い往来を文字通り、脛を没する泥濘に満そうとしている、ある寒い日の午後の事であった。李小二は丁度、商売から帰る所で、例の通り、鼠を入れた嚢を肩にかけ・・・ 芥川竜之介 「仙人」
・・・またあるものは、泥濘の道の上に捨てられました。なんといっても子供らは、箱の中に入っている、飴チョコさえ食べればいいのです。そして、もう、空き箱などに用事がなかったからであります。こうして、泥濘の中に捨てられた天使は、やがて、その上を重い荷車・・・ 小川未明 「飴チョコの天使」
・・・その柵と池の間の小径を行くのだが、二人並んで歩けぬくらい狭く、生い茂った雑草が夜露に濡れ、泥濘もあるので、草履はすぐべとべとになり、うっかり踏み外すと池の中へすべり落ちてしまう。暗い。摺り足で進まねばならなかった。いきなり足を蹴るものがある・・・ 織田作之助 「道」
・・・そのカラーを汚し、その靴を泥濘へ、象牙の塔よりも塵労のちまたに、汗と涙と――血にさえもまみれることを欲うこそ予言者の本能である。 しかもまた大衆を仏子として尊ぶの故に、彼らに単に「最大多数の最大幸福」の功利的満足を与えんとはせずに、常に・・・ 倉田百三 「学生と先哲」
・・・…… 雪解の沼のような泥濘の中に寝て、戦争をしたこともあった。頭の上から、機関銃をあびせかけられたこともあった。 吉永は、自分がよくもこれまで生きてこられたものだと思った。一尺か二尺、自分の立っていた場所が横へそれていたら、死んでい・・・ 黒島伝治 「渦巻ける烏の群」
・・・ 舷側の水かきは、泥濘に踏みこんで、二進も三進も行かなくなった五光のようだった。つい、四五日前まで船に乗って渡っていた、その河の上を、二頭立の馬に引かれた馬車が、勢いよくがらがらと車輪を鳴らして走りだした。防寒服を着た支那人が通る。・・・ 黒島伝治 「国境」
・・・彼は暗がりへ泥濘をはね越すように、身を寄せた。――が恵子ではなかった。ホッとすると、白分が汗をかいていたのを知った。ひとりで赤くなった。 龍介は街を歩く時いつも注意をした。恵子と似た前からくる女を恵子と思い、友だちといっしょに歩いていた・・・ 小林多喜二 「雪の夜」
・・・大石橋の戦争の前の晩、暗い闇の泥濘を三里もこねまわした。背の上から頭の髪まではねが上がった。あの時は砲車の援護が任務だった。砲車が泥濘の中に陥って少しも動かぬのを押して押して押し通した。第三聯隊の砲車が先に出て陣地を占領してしまわなければ明・・・ 田山花袋 「一兵卒」
一 山手線の朝の七時二十分の上り汽車が、代々木の電車停留場の崖下を地響きさせて通るころ、千駄谷の田畝をてくてくと歩いていく男がある。この男の通らぬことはいかな日にもないので、雨の日には泥濘の深い田畝道に古い長靴を引きずっていくし・・・ 田山花袋 「少女病」
・・・千駄木の泥濘はまだ乾かぬ。これが乾くと西風が砂を捲く。この泥に重い靴を引きずり、この西風に逆らうだけでも頬が落ちて眼が血走る。東京はせちがらい。君は田舎が退屈だと言って来た。この頃は定めてますます肥ったろう。僕は毎日同じ帽子同じ洋服で同じ事・・・ 寺田寅彦 「イタリア人」
出典:青空文庫