・・・麦畑はようやく黄ばみかけてきた。鰌とりのかんてらが、裏の田圃に毎夜八つ九つ出歩くこの頃、蚕は二眠が起きる、農事は日を追うて忙しくなる。 お千代が心ある計らいによって、おとよは一日つぶさに省作に逢うて、将来の方向につき相談を遂ぐる事になっ・・・ 伊藤左千夫 「春の潮」
・・・「ねい伯父さん何か上げたくもあり、そばに居て話したくもありで、何だか自分が自分でないようだ、蕎麦饂飩でもねいし、鰌の卵とじ位ではと思っても、ほんに伯父さん何にも上げるもんがねいです」「何にもいらねいっち事よ、朝っぱら不意に来た客に何・・・ 伊藤左千夫 「姪子」
・・・阿片の臭いが鼻にプンと来た。鰌髭をはやし、不潔な陋屋の臭いが肉体にしみこんでいる。垢に汚れた老人だ。通訳が、何か、朝鮮語で云って、手を動かした。腰掛に坐れと云っていることが傍にいる彼に分った。だが鮮人は、飴のように、上半身をねち/\動かして・・・ 黒島伝治 「穴」
・・・「水清ければ魚住まずと言うが、」私は、次第にだらしない事をおしゃべりするようになりました。「こんなに水が汚くても、やっぱり住めないだろうね。」「泥鰌がいるでしょう。」生徒の一人が答えました。「泥鰌が? なんだ、洒落か。」柳の下の・・・ 太宰治 「みみずく通信」
・・・小溝に泥鰌が沈んで水が濁った。新屋敷の裏手へ廻る。自分と精とは一町ばかり後をついて行く。北の山へ雲の峰が出て新築の学校の屋根がきらきらしているが風は涼しい。要太郎が手を上げたから余等は立止って道にしゃがんだ。久万川の土手に沿うた一丸の二番稲・・・ 寺田寅彦 「鴫つき」
・・・ ある柳の下にいつでも泥鰌が居るとは限らないが、ある柳の下に泥鰌の居りやすいような環境や条件の具備している事もまたしばしばある。そういう意味でいわゆる厄年というものが提供する環境や条件を考えてみたらどうだろう。「思考の節約」という事・・・ 寺田寅彦 「厄年と etc.」
・・・浅草の興行街で西洋風のレヴューがはやり初めたのも昭和になってからの事で、震災頃までは安木節の踊や泥鰌すくいが人気を集めていたのであるが、一変して今見るような西洋風のダンスになったのである。 裸体の流行は以上の如く戦争後に始めて起った事で・・・ 永井荷風 「裸体談義」
・・・それまでは、豆腐ん中に頭を突っ込んだ鰌見たいに、暴れられる丈け暴れさせとくんだ。―― セコンドメイトが、油を塗った盆見たいに顔を赤く光らせたのから、私は、彼の考えを見てとった。 私とても、言葉の上の皮肉や、自分の行李を放り込む腹癒せ・・・ 葉山嘉樹 「浚渫船」
・・・ 鍋の中で、ビチビチ撥ね疲れた鰌だった。 白くなった眼に何が見えるか! ――どこだ、ここは?―― 何だって、コレラ病患者は、こんなことが知りたかったんだろう。 私は、同じ乗組の、同じ水夫としての、友達甲斐から、彼に、いや・・・ 葉山嘉樹 「労働者の居ない船」
・・・ 新らしい鳥屋に入ってそこに馴れるまでは卵は生まないとか、たまには泥鰌の骨を食べさせて、新らしい野菜をかかさない様にと教えてやったそうだけれ共あんまり功はなかったらしい。 段々庭の様子に馴れて来た鳥はせまい竹垣の中では辛棒が仕切れな・・・ 宮本百合子 「二十三番地」
出典:青空文庫