・・・僕はこう思って安心した。―― 僕の目を覚ました時にはもう軒先の葭簾の日除けは薄日の光を透かしていた。僕は洗面器を持って庭へ下り、裏の井戸ばたへ顔を洗いに行った。しかし顔を洗った後でも、今しがた見た夢の記憶は妙に僕にこびりついていた。「つ・・・ 芥川竜之介 「海のほとり」
・・・寝台、西洋せいようがや、洗面台、――今はすべてが昼のような光の中に、嬉しいほどはっきり浮き上っている。その上それが何一つ、彼女が陳と結婚した一年以前と変っていない。こう云う幸福な周囲を見れば、どんなに気味の悪い幻も、――いや、しかし怪しい何・・・ 芥川竜之介 「影」
・・・なるほど多加志の病室の外には姫百合や撫子が五六本、洗面器の水に浸されていた。病室の中の電燈の玉に風呂敷か何か懸っていたから、顔も見えないほど薄暗かった。そこに妻や妻の母は多加志を中に挟んだまま、帯を解かずに横になっていた。多加志は妻の母の腕・・・ 芥川竜之介 「子供の病気」
・・・保吉はちょいと苦笑したまま、洗面台の前へ手を洗いに行った。その時ふと鏡を見ると、驚いたことにタウンゼンド氏はいつのまにか美少年に変り、保吉自身は腰の曲った白頭の老人に変っていた。 恥 保吉は教室へ出る前に、必ず教科書・・・ 芥川竜之介 「保吉の手帳から」
・・・生徒達が大きな声で笑ったり呶鳴ったりしながら、洗面所の方に手を洗いに出かけて行くのが窓から見えました。僕は急に頭の中が氷のように冷たくなるのを気味悪く思いながら、ふらふらとジムの卓の所に行って、半分夢のようにそこの蓋を揚げて見ました。そこに・・・ 有島武郎 「一房の葡萄」
・・・手水……何、洗面所を教えておくれ。それから、午飯を頼む。ざっとでいい。」 二階座敷で、遅めの午飯を認める間に、様子を聞くと、めざす場所――片原は、五里半、かれこれ六里遠い。―― 鉄道はある、が地方のだし、大分時間が費るらしい。 ・・・ 泉鏡花 「燈明之巻」
・・・ 汀の蘆に波の寄ると思ったのが、近々と聞える処に、洗面所のあったのを心着いた。 機械口が緩んだままで、水が点滴っているらしい。 その袖壁の折角から、何心なく中を覗くと、「あッ。」と、思わず声を立てて、ばたばたと後へ退った。・・・ 泉鏡花 「鷭狩」
・・・一方が洗面所で、傍に大きな石の手水鉢がある、跼んで手を洗うように出来ていて、筧で谿河の水を引くらしい……しょろ、しょろ、ちゃぶりと、これはね、座敷で枕にまで響いたんだが、風の声も聞こえない。」「まあ……」「すぐの、だだッ広い、黒い板・・・ 泉鏡花 「古狢」
・・・「――また誰か洗面所の口金を開け放したな。」これがまた二度めで。……今朝三階の座敷を、ここへ取り替えない前に、ちと遠いが、手水を取るのに清潔だからと女中が案内をするから、この離座敷に近い洗面所に来ると、三カ所、水道口があるのにそのどれを捻っ・・・ 泉鏡花 「眉かくしの霊」
・・・落葉が降り留っている井戸端の漆喰へ、洗面のとき吐く痰は、黄緑色からにぶい血の色を出すようになり、時にそれは驚くほど鮮かな紅に冴えた。堯が間借り二階の四畳半で床を離れる時分には、主婦の朝の洗濯は夙うに済んでいて、漆喰は乾いてしまっている。その・・・ 梶井基次郎 「冬の日」
出典:青空文庫