・・・彼らは涙の浪に揺られてこの洞窟のごとく薄暗きアーチの下まで漕ぎつけられる。口を開けて鰯を吸う鯨の待ち構えている所まで来るやいなやキーと軋る音と共に厚樫の扉は彼らと浮世の光りとを長えに隔てる。彼らはかくしてついに宿命の鬼の餌食となる。明日食わ・・・ 夏目漱石 「倫敦塔」
・・・あの小さな狡猾さうな眼をした、梟のやうな哲学者ショーペンハウエルは、彼の暗い洞窟の中から人生を隙見して、無限の退屈な欠伸をしながら、厭がらせの皮肉ばかりを言ひ続けた。一方であの荒鷲のやうなニイチェは、もつと勇敢に正面から突撃して行き、彼の師・・・ 萩原朔太郎 「ニイチェに就いての雑感」
・・・ 僕の天性の我がまま気儘も、これに輪をかけて自分を洞窟の仙人にした。人と人との交際ということは、所詮相互の自己抑制と、利害の妥協関係の上に成立する。ところで僕のような我がまま者には、自己を抑制することが出来ない上に、利害交換の妥協という・・・ 萩原朔太郎 「僕の孤独癖について」
・・・大学士の吸う巻煙草がポツンと赤く見えるだけ、「斯う納まって見ると、我輩もさながら、洞熊か、洞窟住人だ。ところでもう寝よう。闇の向うで涛がぼとぼと鳴るばかり鳥も啼かなきゃ洞をのぞきに人も来ず、と。ふん、斯んなあ・・・ 宮沢賢治 「楢ノ木大学士の野宿」
・・・天照という女酋長が、出来上ることをたのしみにして織っていた機の上に弟でありまた良人であって乱暴もののスサノオが馬の生皮をぶっつけて、それを台なしにしてしまったのを怒って、天の岩戸――洞窟にかくれた話がつたえられている。天照大神の岩戸がくれは・・・ 宮本百合子 「衣服と婦人の生活」
・・・ 人間の生活が、きわめて原始的であって、わずかに棍棒を武器として野獣を狩って生活していた頃の生産状態では、文化も非常に原始的で数の観念さえもはっきりせず、絵といえば穴居の洞窟の壁にほりつけた野獣の絵があるにとどまった有様であった。それが・・・ 宮本百合子 「今日の文化の諸問題」
・・・延安の洞窟のなかで生れる文学はどういうものであろうか。それを知りたいと思っているのである。附記 「春桃」一巻の本文、特に主人公たちの名前を、編者は親切に中国の発音に準じてフリガナをつけていてくれる。しかし、作者たちの名に、それがつい・・・ 宮本百合子 「春桃」
・・・ そもそも人類の祖先たちが文字を発明した動機は何だったろう。洞窟に木の皮や獣の皮をまとって生活していた原始生活から発展して来て、ただその場かぎりの餌としてたべてしまうよりも多い計画的な狩猟や農耕がはじまり、交換が行われるようになると・・・ 宮本百合子 「文学と生活」
・・・中国の最も進歩した世代の人々が、古き大地の第何世紀層かの洞窟ぐらしをしている不思議さ。今日この地球は、人間の発展のための矛盾や摩擦の諸問題にあふれています。そのままの姿が、住居の問題、建築の問題に映っていると思われます。 日本の若い建築・・・ 宮本百合子 「よろこびの挨拶」
・・・原始的な造形において眼がそういう役目を持っていることは、フロベニウスに言わせると、南フランスの洞窟の動物画以来のことであって、なにも埴輪人形に限ったことではないのであるが、しかし埴輪人形において特にこのことを痛感せしめられるということも、軽・・・ 和辻哲郎 「人物埴輪の眼」
出典:青空文庫