[補説]「洞院」姓の人物
洞院公賢 (とういんきんかた)
洞院公定 (とういんきんさだ)
洞院実熙 (とういんさねひろ)
姓氏の一。西園寺公経 (さいおんじきんつね) の三男実雄を祖とする、藤原北家西園寺流の公家。
とういんきんかた【洞院公賢】
[1291〜1360]南北朝時代の公卿。有職故実に明るく、南北両朝から信任され、左大臣・太政大臣に任じられた。「拾芥抄」「歴代最要抄」などの編著のほか日記「園太暦 (えんたいりゃく) 」がある。中園入道相国。
とういんきんさだ【洞院公定】
[1340〜1399]南北朝時代の公卿。右大臣・左大臣を歴任。諸家の系図を集大成した「尊卑分脈」を編纂 (へんさん) 。日記「洞院公定日記」は南北朝期の世情を記す。後中園左府。
とういんさねひろ【洞院実熙】
室町時代の公卿。初名、実博。左大臣となったが、のち出家して元鏡と称し、東山に閑居。有職故実に明るく、東山左府とよばれた。著「名目鈔」など。生没年未詳。