・・・信乃が滸我へ発足する前晩浜路が忍んで来る一節や、荒芽山の音音の隠れ家に道節と荘介が邂逅する一条や、返璧の里に雛衣が去られた夫を怨ずる一章は一言一句を剰さず暗記した。が、それほど深く愛誦反覆したのも明治二十一、二年頃を最後としてそれから以後は・・・ 内田魯庵 「八犬伝談余」
・・・の事ゆえ『八犬伝』を御覧の方でも御忘れでしょうが、小文吾が牛の闘を見に行きました時の伴をしました磯九郎という男だの、角太郎が妻の雛衣の投身せんとしたのを助けたる氷六だの、棄児をした現八の父の糠助だの、浜路の縁談を取持った軍木五倍二だの、押か・・・ 幸田露伴 「馬琴の小説とその当時の実社会」
・・・白粉臭い、汗くさい変な香がこもった中で、自分は信乃が浜路の幽霊と語るくだりを読んだ。夜のふけるにつれて、座敷のほうはだんだんにぎやかになる。調子を合わす三味線の音がすると、清らかな女の声でうたうのが手に取るように聞こえる。調子はずれの鄙歌が・・・ 寺田寅彦 「竜舌蘭」
・・・芸者が臥所へ来た時、君は浜路に襲われた犬塚信乃のように、夜具を片附けて、開き直って用向を尋ねた。さて芸者の詞を飽くまで真面目に聞いて、旨く敬して遠ざけたのである。君が語り畢る時、私は君の面を凝視して、そこに Ironie の表情を求めた。し・・・ 森鴎外 「二人の友」
・・・ 八犬伝は「浜路が信乃のもとへ忍ぶ」個所などを除く時、トルストイの芸術観に適合する作物となるそうである。現代徳育の理想もまた八犬士の境地である。この理想はよい。よいには相違ないがこの理想によって「虚栄を根本より覆せ」と叫ぶものは過激だと・・・ 和辻哲郎 「霊的本能主義」
出典:青空文庫