・・・ 女中は急に欠伸をして、私眠くなって来たわ、ああいい気持、体が宙に浮きそう、少しここで横にならせて下さいね。蒲団の裾を枕にすると、もう前後不覚だった。二時間ばかり経って、うっとりと眼をあけた女中は、眠っていた間何をされたかさすがに悟った・・・ 織田作之助 「競馬」
・・・…… 語っているマダムの顔は白粉がとけて、鼻の横にいやらしくあぶらが浮き、息は酒くさかった。ふっと顔をそむけた拍子に、蛇の目傘をさした十銭芸者のうらぶれた裾さばきが強いイメージとなって頭に浮んだ。現実のマダムの乳房への好奇心は途端に消え・・・ 織田作之助 「世相」
・・・自分は決して浮きたる心でなく真面目にこの少女を敬慕しておる、何卒か貴所も自分のため一臂の力を借して、老先生の方を甘く説いて貰いたい、あの老人程舵の取り難い人はないから貴所が其所を巧にやってくれるなら此方は又井下伯に頼んで十分の手順をする、何・・・ 国木田独歩 「富岡先生」
・・・また清元の十六夜清心には「蓮の浮き葉の一寸いと恍れ、浮いた心ぢやござんせぬ。弥陀を契ひに彼の世まで……結びし縁の数珠の緒を」という一ふしがある。 しかしすべての結合がこういった純真な悲劇で終わるとはもとより限らない。ある者はやむなく、あ・・・ 倉田百三 「人生における離合について」
・・・黙ってその児はシンになって浮子を見詰めて釣っている。潮は今ソコリになっていてこれから引返そうというところであるから、水も動かず浮子も流れないが、見るとその浮子も売物浮子ではない、木の箸か何ぞのようなものを、明らかに少年の手わざで、釣糸に徳利・・・ 幸田露伴 「蘆声」
・・・ 堀起された岩の間を廻って、先生方はかわるがわる薄暗い穴の中を覗き込んだ。浮き揚った湯の花はあだかも陰気な苔のように周囲の岩に附着して、極く静かに動揺していた。 新浴場の位置は略崖下の平地と定った。荒れるに任せた谷陰には椚林などの生・・・ 島崎藤村 「岩石の間」
・・・「また浮きますよ」と藤さんがいう。指すところをじっと見守っていると、底の水苔を味噌汁のように煽てて、幽かな色の、小さな鮒子がむらむらと浮き上る。上へ出てくるにつれて、幻から現へ覚めるように、順々に小黒い色になる。しばらくいっしょに集って・・・ 鈴木三重吉 「千鳥」
・・・ 夕闇がせまっていて百日紅の幹だけが、軟らかに浮きあがって見えた。僕は庭の枝折戸に手をかけ、振りむいてマダムにもいちど挨拶した。マダムは、ぽつんと白く縁側に立っていたが、ていねいにお辞儀を返した。僕は心のうちで、この夫婦は愛し合っている・・・ 太宰治 「彼は昔の彼ならず」
・・・ひどく酔って、たちまち、私の頭上から巨大の竜巻が舞い上り、私の足は宙に浮き、ふわりふわりと雲霧の中を掻きわけて進むというあんばいで、そのうちに転倒し、 わたしゃ 売られて行くわいな と小声で呟き、起き上って、また転倒し、世界が自・・・ 太宰治 「酒の追憶」
・・・ 神代からなる蒲の穂や菱の浮き葉は、やはり今でも日本にあるにはあるのである。精霊棚を設けて亡魂を迎える人はやはり今でもあるのである。これがある限り日本はやはり日本である。そんな事を話しながら一九三三年の銀座を歩くのであった。 ・・・ 寺田寅彦 「試験管」
出典:青空文庫