・・・書く気持がぐらついて来たのがその最初で、そうこうするうちに頭に浮かぶことがそれを書きつけようとする瞬間に変に憶い出せなくなって来たりした。読み返しては訂正していたのが、それもできなくなってしまった。どう直せばいいのか、書きはじめの気持そのも・・・ 梶井基次郎 「泥濘」
・・・人の眠催す様なるこの水音を源叔父は聞くともなく聞きてさまざまの楽しきことのみ思いつづけ、悲しきこと、気がかりのこと、胸に浮かぶ時は櫓握る手に力入れて頭振りたり。物を追いやるようなり。 家には待つものあり、彼は炉の前に坐りて居眠りてやおら・・・ 国木田独歩 「源おじ」
・・・まだ宵ながら月は高く澄んで、さえた光を野にも山にもみなぎらし、野末には靄かかりて夢のごとく、林は煙をこめて浮かぶがごとく、背の低い川やなぎの葉末に置く露は玉のように輝いている。小川の末はまもなく入り江、潮に満ちふくらんでいる。船板をつぎ合わ・・・ 国木田独歩 「少年の悲哀」
・・・ 亡くなった母を思い出すたびに、私は幼いときのその乳汁を目に落してくれた母が一番目の前に浮かぶのだ。なつかしい、温い、幾分動物的な感触のまじっている母の愛! 岩波書店主茂雄君のお母さんは信濃の田舎で田畑を耕し岩波君の学資を仕送りした・・・ 倉田百三 「女性の諸問題」
・・・中浮と申しますのは、水死者に三態あります、水面に浮ぶのが一ツ、水底に沈むのが一ツ、両者の間が即ち中浮です。引かれて死体は丁度客の坐の直ぐ前に出て来ました。 「詰らねえことをするなよ、お返し申せと言ったのに」と言いながら、傍に来たものです・・・ 幸田露伴 「幻談」
・・・別れた頃の苦しさは次第次第に忘れたが、ゆかしさはやはり太郎坊や次郎坊の言伝をして戯れていたその時とちっとも変らず心に浮ぶ。気に入らなかったことは皆忘れても、いいところは一つ残らず思い出す、未練とは悟りながらも思い出す、どうしても忘れきってし・・・ 幸田露伴 「太郎坊」
・・・おせんが出たり入ったりした頃の部屋の光景が眼に浮ぶ。庭には古い躑躅の幹もあって、その細い枝に紫色の花をつける頃には、それが日に映じて、部屋の障子までも明るく薄紫の色に見せる。どうかすると、その暖い色が彼女の仮寝している畳の上まで来ていること・・・ 島崎藤村 「刺繍」
・・・途々友達のことが胸に浮ぶ。確に老けた。朝に晩に逢う人は、あたかも住慣れた町を眺めるように、近過ぎて反って何の新しい感想も起らないが、稀に面を合せた友達を見ると、実に、驚くほど変っている。高瀬という友達の言草ではないが、「人間に二通りある――・・・ 島崎藤村 「並木」
・・・卑しい願望が、ちらと胸に浮ぶことは、誰にだってあります。時々刻々、美醜さまざまの想念が、胸に浮んでは消え、浮んでは消えて、そうして人は生きています。その場合に、醜いものだけを正体として信じ、美しい願望も人間には在るという事を忘れているのは、・・・ 太宰治 「女の決闘」
・・・と忽然最愛の妻の顔が眼に浮かぶ。それは門出の時の泣き顔ではなく、どうした場合であったか忘れたが心からかわいいと思った時の美しい笑い顔だ。母親がお前もうお起きよ、学校が遅くなるよと揺り起こす。かれの頭はいつか子供の時代に飛び返っている。裏の入・・・ 田山花袋 「一兵卒」
出典:青空文庫