・・・ ふわりと浮上ると私たちは大変高い所に来たように思いました。波が行ってしまうので地面に足をつけると海岸の方を見ても海岸は見えずに波の脊中だけが見えるのでした。その中にその波がざぶんとくだけます。波打際が一面に白くなって、いきなり砂山や妹・・・ 有島武郎 「溺れかけた兄妹」
・・・ああ、薄曇りの空低く、見通しの町は浮上ったように見る目に浅いが、故郷の山は深い。 また山と言えば思出す、この町の賑かな店々の赫と明るい果を、縦筋に暗く劃った一条の路を隔てて、数百の燈火の織目から抜出したような薄茫乎として灰色の隈が暗夜に・・・ 泉鏡花 「国貞えがく」
・・・青い空の中へ浮上ったように広と潮が張っているその上に、風のつき抜ける日蔭のある一葉の舟が、天から落ちた大鳥の一枚の羽のようにふわりとしているのですから。 それからまた、澪釣でない釣もあるのです。それは澪で以てうまく食わなかったりなんかし・・・ 幸田露伴 「幻談」
・・・屋根に積った真白な雪の間から、軒裏を飾る彫刻の色彩の驚くばかり美しく浮上っていた事と、漆塗の黒い門の扉を後にして落花のように柔かく雪の降って来る有様と、それらは一面の絵として、自分には如何なる外国の傑作品をも聯想せしめない、全く特種の美しい・・・ 永井荷風 「霊廟」
・・・ぴったりと吸いよせられて、その肩のあたりや横顔をぼんやり浮上らせている列にそって顔から顔へ視線が行くと、これらの心がどんな気持で観ているであろうと、梅雨のいきれがひとしお身近に感じられた。若くて寡婦になったひと、その良人の肖像は幼い娘や息子・・・ 宮本百合子 「雨の昼」
・・・ けれども、全体を通じ、忠実な少女お君に、主人の仇討ちを思い立たせるほど纏々としてつきない林之助への執着が統一した印象となって浮上らなかったのは如何したものだろう。 見世物小屋の楽屋で、林之助の噂をする時、菓子売の勘蔵に林之助の情事・・・ 宮本百合子 「気むずかしやの見物」
・・・朝、さっぱりと拭き浄められたマホガニー色の机の上で、又は、輝やいた日の午後北向の障子の棧が単純な 日本の四角を浮上らせる傍に。八畳の 部屋に入り縁に出ようと 机のわきを過る時ちらりと見る お前の姿は何と云・・・ 宮本百合子 「五月の空」
・・・社会の歴史の或る波によっては、非科学的な科学と科学者が特にジャーナリズムの表面に浮上る場合がある。或は、今日における科学と科学者との弱い部分、非科学的な部分、内部的分裂面が文化反動に影響され、客観的には、知性、人間性の圧殺に加担したことにな・・・ 宮本百合子 「作家のみた科学者の文学的活動」
・・・はりつめて対象の底にまで流れ入り、それを浮上らせている精神の美があるからこそ、芭蕉の寂しさの象徴は感覚として活きているのだし、感覚としての響とひろがりと直接さをもっている。そういう一世界を十七字のうちに立てるため、とらえて現実とするために芭・・・ 宮本百合子 「芭蕉について」
・・・大東屋はいつかがらんと人気なく、肌つめたい秋の残照の中に、雁来紅の濃い色調、紫苑、穂に出た尾花など夜に入る前一息のあざやかさで浮上った。 茂みの彼方で箒の音がしはじめた。楢の梢に白い夕月が懸った。――〔一九二六年十一月〕・・・ 宮本百合子 「百花園」
出典:青空文庫