・・・それが、見世ものの踊を済まして、寝しなに町の湯へ入る時は、風呂の縁へ両手を掛けて、横に両脚でドブンと浸る。そして湯の中でぶくぶくと泳ぐと聞いた。 そう言えば湯屋はまだある。けれども、以前見覚えた、両眼真黄色な絵具の光る、巨大な蜈むかでが・・・ 泉鏡花 「国貞えがく」
・・・湯槽に浸ると、びっくりするほど冷たかった。その温泉は鉱泉を温める仕掛けになっているのだが、たぶん風呂番が火をいれるのをうっかりしているのか、それとも誰かが水をうめすぎたのであろう。けれど、気の弱い私は宿の者にその旨申し出ることもできず、辛抱・・・ 織田作之助 「秋深き」
・・・投入することによって、その劇中人物が実際の場合に経験するであろうところの緊張とそれに次いで来るように設計された弛緩とを如実に体験すると同等の効果を満喫して涙を流しはなをすする、と同時に泣くことの快感に浸るのである。しかもこの場合劇中人物のあ・・・ 寺田寅彦 「自由画稿」
・・・才を呵して直ちに章をなす彼の文筆が、絵の具皿に浸ると同時に、たちまち堅くなって、穂先の運行がねっとり竦んでしまったのかと思うと、余は微笑を禁じ得ないのである。虚子が来てこの幅を見た時、正岡の絵は旨いじゃありませんかと云ったことがある。余はそ・・・ 夏目漱石 「子規の画」
・・・いものがあるにしても、自分のすきでない共産党や共産党員がやっつけられるという小気味よさにだまされて、本質的には、いい気味がっている本人自身の市民的自由や生活権をかっぱらわれてしまうような、愚かな快感に浸ることは全く人民的自殺です。自分の首を・・・ 宮本百合子 「新しい抵抗について」
・・・せっせと集注して何かをし、一風呂あびようと云って、程よい湯に浸る位、心も体も、のびのびとする事はない。 思うように出来るとすれば誰でも、自分で加減が出来、いつでも入れる、様式を好みましょう。台所で使う湯と同じボイラーで沸し、白いタイルで・・・ 宮本百合子 「書斎を中心にした家」
・・・真面目な作家はそれを煩悶するとしても、然し積極的にそう云う不健全な社会を改革しようなどと云う熱情は、その階級性によって多く持っていないから、いたずらに感傷主義に浸るだけで、彼女等には正しい生活を建設しようとする気魄に欠けています。芸術作品は・・・ 宮本百合子 「婦人作家の「不振」とその社会的原因」
・・・西洋間に坐り、自分の家には、殆ど全然欠けて居る趣味的な圏境にゆっくり浸ること丈でも、自分を可成り牽くことなのである。けれども、切角林町で幸福に、深い感興を覚えて来ても、一歩家に入ると、Aの、何とも云えない険悪な、陰鬱な感情に充満されて居るの・・・ 宮本百合子 「二つの家を繋ぐ回想」
・・・ 第一の特性は、美に浸る心持ちを善にいそしむ心持ちよりも重んずることを意味する。従って善への関心がないのではない。ただそれが美への関心の下位に立ちさえすればよいのである。むしろ善への関心の強く存在する方がこの特性を一層明らかにするだろう・・・ 和辻哲郎 「享楽人」
出典:青空文庫