・・・この立場からして私は何といっても、自分がブルジョアジーの生活に浸潤しきった人間である以上、濫りに他の階級の人に訴えるような芸術を心がけることの危険を感じ、自分の立場を明らかにしておく必要を見るに至ったものだ。そう考えるのが窮屈だというなら、・・・ 有島武郎 「広津氏に答う」
・・・「いかに『ブルジョアジーの生活に浸潤しきった人間である』にしても、そのために心の髄まで硬化していないかぎり、狐のごとき怜悧な本能で自分を救おうとすることにのみ急でないかぎり、自分の心の興奮をまで、一定の埓内に慎ませておけるものであろうか。…・・・ 有島武郎 「片信」
・・・森は早くから外国に留学した薩人で、長の青木周蔵と列んで渾身に外国文化の浸潤った明治の初期の大ハイカラであった。殊に森は留学時代に日本語廃止論を提唱したほど青木よりも一層徹底して、剛毅果断の気象に富んでいた。 青木は外国婦人を娶ったが、森・・・ 内田魯庵 「四十年前」
・・・そのたびに湿気が部屋へ浸潤して来るように思われたと言う。それがなくても、いったいが湿気の多いじめじめした部屋であった。日の射さないせいもあろう。年中敷きっぱなした蒲団をめくると、青い黴がべったりと畳にへばりついていた。銀色の背中をした名も知・・・ 織田作之助 「道」
・・・そしていつかそれに気がついてみると、栄養や安静が彼に浸潤した、美食に対する嗜好や安逸や怯懦は、彼から生きていこうとする意志をだんだんに持ち去っていた。しかし彼は幾度も心を取り直して生活に向かっていった。が、彼の思索や行為はいつの間にか佯りの・・・ 梶井基次郎 「冬の日」
・・・不安は病室の隅々まで浸潤してきた。栗本は夕飯がのどを通らなかった。平気でねているのは、片脚を切断した福島と、どうせ癒る見込みがない腹膜炎の患者だけであった。 電燈がついてから、看護長が脇の下に帳簿をはさんで、にこ/\しながら這入って来た・・・ 黒島伝治 「氷河」
・・・仏教の三世因果の教えも社会に深く浸潤して居りました。で、八犬士でも為朝でも朝比奈でも因縁因果の法を信じて居ります。神仙妖魅霊異の事も半信半疑ながらにむしろ信じられて居りました。で、八犬士でも為朝でもそれらを否定せぬ様子を現わして居ります。武・・・ 幸田露伴 「馬琴の小説とその当時の実社会」
・・・ してみると、いまから三十年ちかく前に、日本の本州の北端の寒村の一童児にまで浸潤していた思想と、いまのこの昭和二十一年の新聞雑誌に於いて称えられている「新思想」と、あまり違っていないのではないかと思われる。一種のあほらしい感じ、とはこれ・・・ 太宰治 「苦悩の年鑑」
・・・までが歯痛の連想に浸潤されてしまったのである。 その後偶然にたいへんに親切で上手でぐあいのいい歯医者が見つかってそれからはずっとその人にやっかいになって来たが、先天的の悪い素質と後天的不養生との総決算で次第にかんで食えるものの範囲が狭く・・・ 寺田寅彦 「自由画稿」
われわれのように地球物理学関係の研究に従事しているものが国々の神話などを読む場合に一番気のつくことは、それらの説話の中にその国々の気候風土の特徴が濃厚に印銘されており浸潤していることである。たとえばスカンディナヴィアの神話・・・ 寺田寅彦 「神話と地球物理学」
出典:青空文庫