・・・ おとよはどんな悲しい事があっても、つらい事があっても、省作の便りを見、まれにも省作に逢うこともあれば、悲しいもつらいも、心の底から消え去るのだから、よそ目に見るほど泣いてばかりはいない。例の仕事上手で何をしても人の二人前働いている。・・・ 伊藤左千夫 「春の潮」
・・・通り過ぎる汽車の音の強まり弱まり消え去ることによって平面的なスクリーンはたちまち第三次元の空間を獲得して数平方メートルの舞台は数キロメートルの広さに拡張される。遠くから聞こえて来る太鼓の音に聞き耳をたてるヒロインの姿から、一隊の兵士の行進し・・・ 寺田寅彦 「映画芸術」
・・・何処の深山から出て何処の幽谷に消え去るとも知れぬこの破壊の神は、あたかもその主宰者たる「時」の仕事をもどかしがっているかのように、あらゆるものを乾枯させ粉砕せんとあせっている。 火鉢には一塊の炭が燃え尽して、柔らかい白い灰は上の藁灰の圧・・・ 寺田寅彦 「凩」
・・・しかしあとになって考えてみると、締め切った三畳の空間からねずみが一匹消え去る道理はなかった。仮定的な長押の穴はそれっきり確かめてもみないが、おそらくほんとうの穴でなかったろうし、たとえ穴であってもその背面には通っていない事が少し考えれば家の・・・ 寺田寅彦 「ねずみと猫」
・・・そは遮ぎられたる風の静なる顫動さながら隠れし小禽のひそかに飛去るごとくさとむらがり立ちて起ると見れば消え去るなり。また Odelettes と題せられた小曲の中にも、次の如きものがある。Un petit rose・・・ 永井荷風 「向嶋」
・・・二十世紀の倫敦がわが心の裏から次第に消え去ると同時に眼前の塔影が幻のごとき過去の歴史を吾が脳裏に描き出して来る。朝起きて啜る渋茶に立つ煙りの寝足らぬ夢の尾を曳くように感ぜらるる。しばらくすると向う岸から長い手を出して余を引張るかと怪しまれて・・・ 夏目漱石 「倫敦塔」
・・・社会形成の推移の過程にあらわれて来ているこの女にとって自然でない女らしさの観念がつみとられ消え去るためには、社会生活そのものが更に数歩の前進を遂げなければならないこと、そしてその中で女の生活の実質上の推進がもたらされなければならないというこ・・・ 宮本百合子 「新しい船出」
・・・ スーザンは、生活のあらゆる経験がただ無駄に消え去るものではないという感覚の中で、人類の前進への漠然とした信頼を示している。けれども、彼女は、人間が人間を理解してゆく輪がそんなに狭く小さくめいめいに主観的でしかないという悲しみが、何処か・・・ 宮本百合子 「『この心の誇り』」
・・・ダーリヤの妻から母になろうとする若い胸には、こう考えて来ると、いつも、永久に消え去る一条の煙の果を眺めるような当途もない心持が湧くのであった。彼女には、レオニード・グレゴリウィッチがこれ以上立身をして、自分達の生活に変りが起ろうとも思えなか・・・ 宮本百合子 「街」
・・・しかし一度心に起こった事はいかに恥じようとも全然消え去るという事がありません。時には私は自分の心が穢ないものでいっぱいになっている事を感じます。私たちはこの穢ないものを恥じるゆえに、抑圧し征服し得るゆえに、安んじていていいものでしょうか。私・・・ 和辻哲郎 「ある思想家の手紙」
出典:青空文庫