・・・これも多くの人にとっては平凡な事であろうが、世人からは往々忘れられる事である。渾沌とした問題を処理する第一着手は先ず大きいところに眼を着けて要点を攫むにあるので、いわゆる第一次の近似である。しかし学者が第一次の近似を求めて真理の曙光を認めた・・・ 寺田寅彦 「物理学の応用について」
・・・ 吾人が事象に対した時に、吾人の感官が刺戟されても、無念無想の渾沌たる状態においては自分もなければ世界もない。そのような状態が分裂して、能知者と所知者が出来る事によって、始めて認識が成立し始める。そこから色々な観念が生れ、観念は更に分裂・・・ 寺田寅彦 「文学の中の科学的要素」
・・・ もし物質間の引力が距離によらず同一であったり、あるいは距離の大なるほど大であったと仮定したら、天地万物の運動はすべて人間には端倪する事の出来ぬ渾沌たるものになるであろう。如何なる強度の望遠鏡でも窺う事の出来ぬような遠い天体の上に起る些・・・ 寺田寅彦 「方則について」
・・・とが同時にオーヴァラップして聞こえていても、われわれはきれいに二つを別々に聞き分けることができるが、二つの少し込み合った映像の重合したものはただ混沌たる夢のようなものにしか見えない。たとえ二つのものは判別されても、二つのものの独自の属性は失・・・ 寺田寅彦 「耳と目」
・・・今まではなるべくなら避けたく思った統計的不定の渾沌の闇の中に、統計的にのみ再現的な事実と方則とを求めるように余儀なくされたのである。しかもそういう場合の問題の解析に必要な利器はまだきわめて不備であって、まさにこれから始めて製造に取りかかるべ・・・ 寺田寅彦 「量的と質的と統計的と」
・・・工ヲ発シ混沌ヲ鑿ル。而シテ旧時ノ風致全ク索ク矣。」と言っている。雅談の成った年は其序によって按ずれば癸未暮春である。また巻尾につけられた依田学海の跋を見れば明治十九年二月としてある。 香亭雅談には又江戸時代の文人にして不忍池畔に居を卜し・・・ 永井荷風 「上野」
・・・斯くの如き傾向はいつの時に其の源を発したか。混沌たる明治文明の赴くところは大正年間十五年の星霜を経由して遂にこの風俗を現出するに至ったものと看るより外はない。一たび考察をここに回らせば、世態批判の興味の勃然として湧来るを禁じ得ない。是僕をし・・・ 永井荷風 「申訳」
・・・ 人々は、眼を上げて、世界の出来事を見ると、地獄と極楽との絵を重ねて見るような、混沌さを覚えた。が、眼を、自分の生活に向けると、何しろ暑くて、生活が苦しくて、やり切れなかった。 その、四十年目の暑さに、地球がうだって、鮒共が総て目を・・・ 葉山嘉樹 「乳色の靄」
・・・其方の心の奥にも、このあらゆる無意味な物事の混沌たる中へ関係の息を吹込む霊魂は据えてあった。この霊魂を寝かして置いて混沌たる物事を、生きた事業や喜怒哀楽の花園に作り上げずにいて、それを今わしが口から聞くというのは、其方の罪じゃ。人というもの・・・ 著:ホーフマンスタールフーゴー・フォン 訳:森鴎外 「痴人と死と」
・・・明治維新の混沌期にもしフェノロサがいなかったら、当時の日本政府は価値のある過去の美術作品を外国美術館でしか見ることの出来ないものにしてしまっただろう。よそから教えられた日本美術の価値におどろいて、「国宝」をこしらえたのはいいが、「国宝」とい・・・ 宮本百合子 「国宝」
出典:青空文庫