・・・そこへ、殿中の混雑もまた、益々甚しくなり出した。これは御目付土屋長太郎が、御徒目付、火の番などを召し連れて、番所番所から勝手まで、根気よく刃傷の相手を探して歩いたが、どうしても、その「上下を着た男」を見つける事が出来なかったからである。・・・ 芥川竜之介 「忠義」
・・・ 動坂の往来は時刻がらだけに前よりも一層混雑していた。が、庚申堂を通り過ぎると、人通りもだんだん減りはじめた。僕は受け身になりきったまま、爪先ばかり見るように風立った路を歩いて行った。 すると墓地裏の八幡坂の下に箱車を引いた男が一人・・・ 芥川竜之介 「年末の一日」
・・・ 異様な混雑が始まる。人が皆席を立って動く。八方から、丁度熱に浮かされた譫語のような、短い問や叫声がする。誰やらが衝立のような物の所へ駆け附けた。「電流を。電流を。」押えたような検事の声である。 ぴちぴちいうような微かな音がする・・・ 著:アルチバシェッフミハイル・ペトローヴィチ 訳:森鴎外 「罪人」
・・・ さらにこの混雑は彼らの間のみに止まらないのである。今日の文壇には彼らのほかにべつに、自然主義者という名を肯じない人たちがある。しかしそれらの人たちと彼らとの間にはそもそもどれだけの相違があるのか。一例を挙げるならば、近き過去において自・・・ 石川啄木 「時代閉塞の現状」
・・・ 停車場に着くと、湧返ったその混雑さ。 羽織、袴、白襟、紋着、迎いの人数がずらりと並ぶ、礼服を着た一揆を思え。 時に、継母の取った手段は、極めて平凡な、しかも最上常識的なものであった。「旦那、この革鞄だけ持って出ますでな。」・・・ 泉鏡花 「革鞄の怪」
・・・髪の薄い天窓を真俯向けにして、土瓶やら、茶碗やら、解かけた風呂敷包、混雑に職員のが散ばったが、その控えた前だけ整然として、硯箱を右手へ引附け、一冊覚書らしいのを熟と視めていたのが、抜上った額の広い、鼻のすっと隆い、髯の無い、頤の細い、眉のく・・・ 泉鏡花 「朱日記」
・・・ そんな混雑した汽車の片隅に、白崎と赤井の二人は、しょんぼりと浮かぬ顔でうずくまっていた。 汽車が沼津へ着いた時である。「お願いです。この窓あけて下さいません?」 焼跡らしい、みすぼらしいプラットホームで、一人の若い洋装の女・・・ 織田作之助 「昨日・今日・明日」
・・・耕吉は橋を渡り、汽車に乗って、窓から顔を出していたが、やがてプラットホームの混雑も薄れてきても、小僧も巡査の姿も見えないので、「やっぱしだめなんだろう」とも思っていたが、発車間ぎわになって、小僧は前になり巡査は後から剣をがちゃがちゃさせなが・・・ 葛西善蔵 「贋物」
・・・凡て女の惑いからいろんな混雑や悲嘆が出て来るものです。現に僕の事でも彼女が惑うたからでしょう……」 お正はうつ向いたまま無言。「それで今夜は運よくお互に会うことが出来ましたが、最早二度とは会えませんから言います、貴女も身体も大切にし・・・ 国木田独歩 「恋を恋する人」
・・・店さきのラムネの壜がからになって金を払わずに遍路が混雑にまぎれて去ったりする。人々は、いまじゃ弘法大師もさっぱり睨みがきかなくなったと云って罰のバチがあたることを殆んど信じなくなっている。・・・ 黒島伝治 「海賊と遍路」
出典:青空文庫