・・・彼等の枕に響いたのは、ちょうどこの国の川のように、清い天の川の瀬音でした。支那の黄河や揚子江に似た、銀河の浪音ではなかったのです。しかし私は歌の事より、文字の事を話さなければなりません。人麻呂はあの歌を記すために、支那の文字を使いました。が・・・ 芥川竜之介 「神神の微笑」
・・・お前たちの清い心に残酷な死の姿を見せて、お前たちの一生をいやが上に暗くする事を恐れ、お前たちの伸び伸びて行かなければならぬ霊魂に少しでも大きな傷を残す事を恐れたのだ。幼児に死を知らせる事は無益であるばかりでなく有害だ。葬式の時は女中をお前た・・・ 有島武郎 「小さき者へ」
・・・ 王子も燕もはるかにこれを見て、今日も一ついい事をしたと清い心をもって夜のねむりにつきました。 そうこうするうちに気候はだんだんと寒くなってきました。青銅の王子の肩ではなかなかしのぎがたいほどになりました。しかし王子は次の日も次の日・・・ 有島武郎 「燕と王子」
・・・その好い人が町を離れて此処で清い空気を吸って、緑色な草木を見て、平日よりも好い人になって居るのだ。初の内は子供を驚かした犬を逐い出してしまおうという人もあり、中には拳銃で打ち殺そうなどという人もあった。その内に段々夜吠える声に聞き馴れて、し・・・ 著:アンドレーエフレオニード・ニコラーエヴィチ 訳:森鴎外 「犬」
・・・が、その年増を――おばさん、と呼ぶでございましゅ、二十四五の、ふっくりした別嬪の娘――ちくと、そのおばさん、が、おばしアん、と云うか、と聞こえる……清い、甘い、情のある、その声が堪らんでしゅ。」「はて、異な声の。」「おららが真似るよ・・・ 泉鏡花 「貝の穴に河童の居る事」
・・・意にお米が来合せたことばかりを知っているが――知らずやその時、同一赤羽の停車場に、沢井の一行が卓子を輪に囲んだのを、遠く離れ、帽子を目深に、外套の襟を立てて、件の紫の煙を吹きながら、目ばかり出したその清い目で、一場の光景を屹と瞻っていたこと・・・ 泉鏡花 「政談十二社」
・・・この辺は水の綺麗な処で、軒下の両側を、清い波を打った小川が流れています。もっともそれなんぞ見えるような容易い積り方じゃありません。 御存じの方は、武生と言えば、ああ、水のきれいな処かと言われます――この水が鐘を鍛えるのに適するそうで、釜・・・ 泉鏡花 「雪霊記事」
・・・緊った口許が、莞爾する時ちょっとうけ口のようになって、その清い唇の左へ軽く上るのが、笑顔ながら凜とする。総てが薄手で、あり余る髪の厚ぼったく見えないのは、癖がなく、細く、なよなよとしているのである。緋も紅も似合うものを、浅葱だの、白の手絡だ・・・ 泉鏡花 「燈明之巻」
・・・風鈴の音もにわかに清い。蝉の声もいつかきこえず、部屋のなかに迷い込んで来た虫を、夏の虫かと思って、団扇ではたくと、ちりちりとあわれな鳴声のまま、息絶える。鈴虫らしい。八月八日、立秋と、暦を見るまでもなく、ああ、もう秋だな、と私は感ずるのであ・・・ 織田作之助 「秋の暈」
・・・最下等の芸者だが、最上等の芸者よりも清いのである。もっとも情夫は何人もいる。…… 語っているマダムの顔は白粉がとけて、鼻の横にいやらしくあぶらが浮き、息は酒くさかった。ふっと顔をそむけた拍子に、蛇の目傘をさした十銭芸者のうらぶれた裾さば・・・ 織田作之助 「世相」
出典:青空文庫