・・・朝夕に讃美歌の合唱が聞こえて、それがこうした山間の静寂な天地で聞くと一層美しく清らかなものに聞こえた。みんな若い人達で婦人も若干交じっていた。昔自分達が若かった頃のクリスチャンのように妙に聖者らしい気取りが見えなくて感じのいい人達のようであ・・・ 寺田寅彦 「高原」
・・・それはなんの歌だかわからないが、二部の合唱で、静かな穏やかな清らかな感じのするものであった。汽車のゴーゴーという単調な重々しい基音の上に、清らかに澄みきった二つの音の流れがゆるやかな拍子で合ったり離れたり入り乱れて流れて行く。窓の外にはさら・・・ 寺田寅彦 「写生紀行」
・・・などと一度も考えたことがないように、こっちが清らかでさえあれば、願いが通じるような気がする――。「ときにな――」 竹くずのなかにうずまって、母親は母親でさっきから考えていたらしく、きせるたばこを一服つけながら、いった。「こないだ・・・ 徳永直 「白い道」
・・・ 兄が優しく清らかな声で膝の上なる書物を読む。「我が眼の前に、わが死ぬべき折の様を想い見る人こそ幸あれ。日毎夜毎に死なんと願え。やがては神の前に行くなる吾の何を恐るる……」弟は世に憐れなる声にて「アーメン」と云う。折から遠くより・・・ 夏目漱石 「倫敦塔」
・・・寧ろ清らかな透明な限りのない愉快と安静とが菜食にあるということを申しあげるのであります。」老人は会釈して壇を下り拍手は天幕もひるがえるようでした。祭司次長は立って異教席の方を見ました。異教席から瘠せた顔色の悪いドイツ刈りの男が立ちました。祭・・・ 宮沢賢治 「ビジテリアン大祭」
・・・子供の居ない家に欠けて居た旺盛な活動慾、清らかな悪戯、叱り乍ら笑わずに居られない無邪気な愛嬌が、いきなり拾われて来た一匹の仔犬によって、四辺一杯にふりまかれたのだ。 私は少しぬかる泥もいとわず、彼方にかけ、此方に走りして仔犬を遊ばせた。・・・ 宮本百合子 「犬のはじまり」
・・・ 新らしい私の部屋新らしい六畳の小部屋わたしの部屋正面には清らかな硝子の出窓をこえて初春の陽に揺れる松の梢や、小さな鑓飾りをつけた赤屋根の斜面が見える。左手には、一間の廊下。朝日をうけ、軽らかな・・・ 宮本百合子 「海辺小曲(一九二三年二月――)」
・・・憂愁を湛えた清らかな眼差は、細く耀きを帯びて空中を見ていたが、栖方を見ると、つと美しい視線をさけて外方を向いたまま動かなかった。「あそこに帝大の生徒がいるでしょう。」 と栖方は梶に云った。「ふむ。いる。」「あれは僕の同僚です・・・ 横光利一 「微笑」
・・・ しかし自分の心はどれほど清らかになっているか。恥ずべき行為をしないと自信している私は、心の中ではなおあらゆる悪事を行なっているのです。最も狂暴なタイラントや最も放恣な遊蕩児のしそうなことまでも。もちろん私は気づくとともにそれを恥じ自分・・・ 和辻哲郎 「ある思想家の手紙」
・・・日本絵の具は透明で、一種の清らかな感じと離し難くはあるが、同時にまたいかにも中の薄い、実質の乏しい感じから脱れる事ができない。次に油絵の具は、その粘着力のゆえに、現実と取り組んで行くような、執拗な熱のある筆触の感じを出すことができる。日本絵・・・ 和辻哲郎 「院展遠望」
出典:青空文庫