・・・彼れは酒の香をかぐと急にえぐられるような渇きと食欲とを覚えて、すれ違った男を見送ったりしたが、いまいましさに吐き捨てようとする唾はもう出て来なかった。糊のように粘ったものが唇の合せ目をとじ付けていた。 内地ならば庚申塚か石地蔵でもあるは・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・「短刀で、こ、こことここを、あっちこっち、ぎらぎら引かれて身体一面に血が流れた時は、……私、その、たらたら流れて胸から乳から伝うのが、渇きの留るほど嬉しかった。莞爾莞爾したわ。何とも言えない可い心持だったんですよ。お前さんに、お前さんに・・・ 泉鏡花 「第二菎蒻本」
・・・ 何の報いで咽喉の焦付きそうなこの渇き? 渇く! 渇くとは如何なものか、御存じですかい? ルーマニヤを通る時は、百何十度という恐ろしい熱天に毎日十里宛行軍したッけが、其時でさえ斯うはなかった。ああ誰ぞ来て呉れれば好いがな。 しめた! こ・・・ 著:ガールシンフセヴォロド・ミハイロヴィチ 訳:二葉亭四迷 「四日間」
・・・ 翌朝早く起きいでて源叔父は紀州に朝飯たべさせ自分は頭重く口渇きて堪えがたしと水のみ飲みて何も食わざりき。しばししてこの熱を見よと紀州の手取りて我額に触れしめ、すこし風邪ひきしようなりと、ついに床のべてうち臥しぬ。源叔父の疾みて臥するは・・・ 国木田独歩 「源おじ」
・・・されど路傍なる梅の老木のみはますます栄えて年々、花咲き、うまき実を結べば、道ゆく旅客らはちぎりて食い、その渇きし喉をうるおしけり。されどたれありて、この梅をここにまきし少女のこの世にありしや否やを知らず。・・・ 国木田独歩 「詩想」
・・・ 熱沙限りなきサハラを旅する隊商も時々は甘き泉わき緑の木陰涼しきオーシスに行きあいて堪え難き渇きと死ぬばかりなる疲労を癒する由あれど、人生まれ落ちての旅路にはただ一度、恋ちょう真清水をくみ得てしばしは永久の天を夢むといえども、この夢はさ・・・ 国木田独歩 「わかれ」
・・・ 窟禅定も仕はてたれば、本尊の御姿など乞い受けて、来し路ならぬ路を覚束なくも辿ることやや久しく、不動尊の傍の清水に渇きたる喉を潤しなどして辛くも本道に出で、小野原を経て贄川に憩う。荒川橋とて荒川に架せる鉄橋あり。岸高く水遠くして瀬をなし・・・ 幸田露伴 「知々夫紀行」
・・・ 茶の湯も何も要らぬ事にて、のどの渇き申候節は、すなわち台所に走り、水甕の水を柄杓もてごくごくと牛飲仕るが一ばんにて、これ利休の茶道の奥義と得心に及び申候。 というお手紙を、私はそれから数日後、黄村先生からいただいた。・・・ 太宰治 「不審庵」
・・・ 一般の人々が、毎日の生活の中にこれほどの不合理と権力の押しつけがましさを感じ、物質と精神の渇きあがった苦しさを感じているとき、このままでは、やりきれないという、素朴な人間感情からだけでさえも、自然に変革と前進との側に立たないわけにはゆ・・・ 宮本百合子 「新しい抵抗について」
・・・成程これは渇きをとめるし、腹にいいしお菜になるし、さすが経験者の考えることです。水に入ってあせって泳ぐなということも強調されていました。そんなこともみんな伝えます。 私が行けないから小包みばかりがノロノロと道中して行くのかと思うと気がも・・・ 宮本百合子 「獄中への手紙」
出典:青空文庫