・・・私情で雑誌の発行を遅らせては済まないと、寺田はやはり律義者らしくいやいや競馬場へ出掛けた。ちょうど一競走終ったところらしく、スタンドからぞろぞろと引き揚げて来る群衆の顔を、この中に一代の男がいるはずだとカッと睨みつけていると、やあ済まん済ま・・・ 織田作之助 「競馬」
・・・結婚式を帰還するまでのばすのは、何か戦死を慮っているようで、済まないと、両親を説き伏せた。 二日のちにはもう結婚式が挙げられた。支度もなにもする暇もない慌しい挙式であった。そして、その翌日の夜には彼ははや汽車に乗っていた。再び戦地へ戻っ・・・ 織田作之助 「十八歳の花嫁」
・・・それでいて一度バラバラとやってみなくては気が済まないのだ。それ以上は堪らなくなってそこへ置いてしまう。以前の位置へ戻すことさえできない。私は幾度もそれを繰り返した。とうとうおしまいには日頃から大好きだったアングルの橙色の重い本までなおいっそ・・・ 梶井基次郎 「檸檬」
・・・この時やっと頭を上げて、「親方どうも済まない。」と弱い声で言ってまたも咳をしてホッとため息をついた。長おもてのやせこけた顔で、頭は五分刈りがそのまま伸びるだけ伸びて、ももくちゃになって少しのつやもなく、灰色がかっている。 文公のおか・・・ 国木田独歩 「窮死」
・・・「なあに、無暗に駈け出して甲府へ行ったっていけないということは、お前の母様の談でよく解っているから、そんな事は思ってはいないけれど、余り家に居て食い潰し食い潰しって云われるのが口惜いから、叔父さんにあ済まないけれどどこへでも出て、どんな辛い・・・ 幸田露伴 「雁坂越」
・・・ 少し気の毒なような感じがせぬではなかったが、これが少年でなくて大人であったなら疾くに自分は言出すはずのことだったから、仕方がないと自分に決めて、 兄さん、済まないけれどもネ、お前の坐っているところを、右へでも左へでも宜いから、一間・・・ 幸田露伴 「蘆声」
・・・それをしなければ気が済まないように思った。折角伜がそう言ってよこして、新しく開業した食堂を母に見せたいと言うのだから。 お三輪は震災後の東京を全く知らないでもない。一度、新七に連れられて焼跡を見に上京したこともある。小竹とした暖簾の掛っ・・・ 島崎藤村 「食堂」
・・・だけれどあの人はなんにでも鬱金香を付けなくちゃあ気が済まないのだもの。(乙、目を雑誌より放し、嘲弄の色を帯びて相手を見る。甲、両手を上沓に嵌御覧よ。あの人の足はこんなに小さいのよ。そして歩き付きが意気だわ。お前さんまだあの人・・・ 著:ストリンドベリアウグスト 訳:森鴎外 「一人舞台」
・・・返す返す済まないが、右の事情を御賢察のうえ御寛恕下さい。しかし貴兄から、こう頼まれたが、工面出来ないかと友達連に相談をかけても良いものならばまた可能性の生れて来る余地あるやも知れぬが、これは貴兄に対する礼儀でないと思うので……右とり急ぎ。辻・・・ 太宰治 「虚構の春」
・・・ 左隣の謡曲はまだ済まない。右の耳には此脅迫の声が聞えるのである。僕は思い掛けない話なので、暫くあっけに取られていた。そして今度逢ったらを繰り返すのを聞いて、何の思索の暇もなくこう云った。「何故今遣らないのだ。」「うむ。遣る。」・・・ 太宰治 「花吹雪」
出典:青空文庫