・・・それは温厚篤実をもって聞こえた人で世間ではだれ一人非難するもののないほどまじめな親切な老人であって、そうして朝晩に一度ずつ神棚の前に礼拝し、はるかに皇城の空を伏しおがまないと気の済まない人であった。それが年の始めのいちばんだいじな元旦の朝と・・・ 寺田寅彦 「自由画稿」
・・・「しかし阿蘇へ登りに来たんだから、登らないで帰っちゃあ済まない」「誰に済まないんだ」「僕の主義に済まない」「また主義か。窮屈な主義だね。じゃ一度熊本へ帰ってまた出直してくるさ」「出直して来ちゃ気が済まない」「いろいろ・・・ 夏目漱石 「二百十日」
・・・「明日でもいいでしょう、と云ったんだが、どうしても直ぐにって署長の命令だからね、済まないが、直ぐに来て貰いたいんだ。直ぐに帰すからね」 中村は、こう云うと、又煽ぎ立てた。「何しろ夜中じゃしようがないよ。子供を手離せないもんだ・・・ 葉山嘉樹 「生爪を剥ぐ」
・・・「ああッ、お千代に済まないなア。何と思ッてるだろう。横浜に行ッてることと思ッてるだろうなア。すき好んで名代部屋に戦えてるたア知らなかろう。さぞ恨んでるだろうなア。店も失くした、お千代も生家へ返してしまッた――可哀そうにお千代は生家へ返し・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・欲しくなると小説でも書かなければならんがそいつは芸術に対して済まない。剰え、最初は自分の名では出版さえ出来ずに、坪内さんの名を借りて、漸と本屋を納得させるような有様であったから、是れ取りも直さず、利のために坪内さんをして心にもない不正な事を・・・ 二葉亭四迷 「予が半生の懺悔」
・・・「うん、なかなかいいね。」象は二あし歩いてみて、さもうれしそうにそう云った。 次の日、ブリキの大きな時計と、やくざな紙の靴とはやぶけ、象は鎖と分銅だけで、大よろこびであるいて居った。「済まないが税金も高いから、今日はすこうし、川・・・ 宮沢賢治 「オツベルと象」
・・・ そして、親達には済まない思いなどをするより今いっそ、一思いに川にでも身を投げて仕舞った方が、どれだけいいかしれない。 お君の眼の前に、病院へ行く道の、名を知らない川が流れた。 あの彼側の堤の木の影の方へ行って飛び込めば、橋から・・・ 宮本百合子 「栄蔵の死」
・・・わたくしはそればかりでも、お上に対して済まない事をいたしているようでなりませぬ。それにお牢を出る時に、この二百文をいただきましたのでございます。こうして相変わらずお上の物を食べていて見ますれば、この二百文はわたくしが使わずに持っていることが・・・ 森鴎外 「高瀬舟」
・・・あなたより、さきに死んで、済まないわね。」 彼は答えの代りに、声を上げて泣き出した。「あなた、長い間、ほんとに済まなかったわ。御免してね。」「俺も、お前に、長い間世話になって、すまなかった。」と彼は漸くいった。 妻は顎をひい・・・ 横光利一 「花園の思想」
・・・私はT氏に対して済まないという思いを禁ずることができない。 わずかに三四度逢ったT氏に対してさえそうである。まして彼らの場合は。――何といってもIやKは寂しいだろう。私を失ったためよりも、私の別離が凶兆として響いたために。――こう私は考・・・ 和辻哲郎 「転向」
出典:青空文庫