・・・ええ奥さんを持ってはると褒められるのを、ひと事のように聴き流して、柳吉は渋い顔であった。むしろ、むっつりして、これで遊べば滅茶苦茶に羽目を外す男だとは見えなかった。 割合熱心に習ったので、四、五日すると柳吉は西瓜を切る要領など覚えた。種・・・ 織田作之助 「夫婦善哉」
・・・と叱すれば、皆々同じく頭を下げて、「杉原太郎兵衛、御願い申す。」「斎藤九郎、御願い申す。」「貴志ノ余一郎、御願い申す。」「宮崎剛蔵……」「安見宅摩も御願い申す。」と渋い声、砂利声、がさつ声、尖り声、いろいろの声で・・・ 幸田露伴 「雪たたき」
・・・ちょっと筆記させていただきます、と言って手帖を出したら、それが、いたく先生のお気に召して、それからは、ややもすれば、坐り直してゆっくりした口調でものを言いたがり、私が手帖を出さないと、なんともいえない渋いまずい顔をなさって、そうしてチクリチ・・・ 太宰治 「黄村先生言行録」
・・・そして無意識に唇を動かして、何か渋いものを味わったように頬をすぼめた。併し此場を立ち上がって、あの倒れている女学生の所へ行って見るとか、それを介抱して遣るとか云う事は、どうしても遣りたくない。女房はこの出来事に体を縛り付けられて、手足も動か・・・ 太宰治 「女の決闘」
・・・店のおやじの機嫌をとりたい為に、わざわざポケットに鋏を忍び込ませてやって来るのであろうが、苦心の甲斐もなく、やっぱりおやじに黙殺されている。渋い芸も派手な芸も、あの手もこの手も、一つとして役に立たない。一様に冷く黙殺されている。けれどもお客・・・ 太宰治 「禁酒の心」
・・・最初の女房は、これはまあ当時の文学少女とでもいうべき、眼鏡をかけて脳の悪い女でしたが、これがまた朝から夜中まで、しょっちゅう私に、愛しかたが足りない、足りない、と言って泣き、私もまことに閉口して、つい渋い顔になりますと、たちまちその女は金切・・・ 太宰治 「男女同権」
・・・ 富本でこなれた渋い声で御生前よくこう言い言いして居られましたから、いずれこれには面白い因縁でもあるのでございましょう。どんな因縁なのだろうなどと野暮なお探りはお止しなさいませ。婆様がお泣きなさるでございましょう。と申しますのは、私の婆・・・ 太宰治 「葉」
・・・れども入歯もまた見つかってわるい筈は無之、老生は二重にも三重にも嬉しく、杉田老画伯よりその入歯を受取り直ちに口中に含み申候いしが、入歯には桜の花びらおびただしく附着致し居る様子にて、噛みしめると幽かに渋い味が感ぜられ申候。杉田さん、どうか老・・・ 太宰治 「花吹雪」
・・・浅草という土地がら、大道具という職業がらには似もつかず、物事が手荒でなく、口のききようも至極穏かであったので、舞台の仕事がすんで、黒い仕事着を渋い好みの着物に着かえ、夏は鼠色の半コート、冬は角袖茶色のコートを襲ねたりすると、実直な商人としか・・・ 永井荷風 「草紅葉」
・・・あいつの疲れたような渋いような威厳が気に入った。あの若さで世の偽に欺かれたのを悔いたような処のあるのを面白く感じたと云った。そこで欺して己が手に入れて散々弄んだ揚句に糟を僕に投げてくれた。姿も心も変り果てて、渦巻いていた美しい髪の毛が死んだ・・・ 著:ホーフマンスタールフーゴー・フォン 訳:森鴎外 「痴人と死と」
出典:青空文庫