・・・然るにどこからか黒犬が一匹、一行のさまよっていた渓谷に現れ、あたかも案内をするように、先へ立って歩き出した。一行はこの犬の後に従い、一日余り歩いた後、やっと上高地へ着することが出来た。しかし犬は目の下に温泉宿の屋根が見えると、一声嬉しそうに・・・ 芥川竜之介 「白」
・・・山に囲まれた細長い渓谷は石で一面に埋められているといってもいい。大きなのやら小さなのやら、みかげ石のまばゆいばかりに日に反射したのやら、赤みを帯びたインク壺のような形のやら、直八面体の角ばったのやら、ゆがんだ球のようなまるいのやら、立体の数・・・ 芥川竜之介 「槍が岳に登った記」
・・・しかし自分の眼底にはかの地の山岳、河流、渓谷、緑野、森林ことごとく鮮明に残っていて、わが故郷の風物よりも幾倍の色彩を放っている。なぜだろう?『月光をして汝の逍遙を照らさしめ』、自分は夜となく朝となく山となく野となくほとんど一年の歳月を逍・・・ 国木田独歩 「小春」
・・・ 園内の渓谷に渡した釣り橋を渡って行くとき向こうから来た浴衣姿の青年の片手にさげていたのも、どうもやはり「千曲川のスケッチ」らしい。絵日傘をさした田舎くさいドイツ人夫婦が恐ろしくおおぜいの子供をつれて谷を見おろしていた。 動物園があ・・・ 寺田寅彦 「あひると猿」
・・・その幕の一部を左右に引きしぼったように梓川の谿谷が口を開いている。それが、まだ見ぬ遠い彼方の別世界へこれから分けのぼる途中の嶮しさを想わせるのであった。 島々からのバスの道路が次第次第に梓川の水面から高く離れて行く。ある地点では車の窓か・・・ 寺田寅彦 「雨の上高地」
・・・自分もせいぜい長生きする覚悟で若い者に負けないように銀座アルプスの渓谷をよじ上ることにしたほうがよいかもしれない。そうして七十歳にでもなったらアルプスの奥の武陵の山奥に何々会館、サロン何とかいったような陽気な仙境に桃源の春を探って不老の霊泉・・・ 寺田寅彦 「銀座アルプス」
・・・去年の秋の所見によると塩尻から辰野へ越える渓谷の両側のところどころに樹木が算を乱して倒れあるいは折れ摧けていた。これは伊那盆地から松本平へ吹き抜ける風の流線がこの谷に集約され、従って異常な高速度を生じたためと思われた。こんな谷の斜面の突端に・・・ 寺田寅彦 「颱風雑俎」
・・・河の流れをたどって行く鉛筆の尖端が平野から次第に谿谷を遡上って行くに随って温泉にぶつかり滝に行当りしているうちに幽邃な自然の幻影がおのずから眼前に展開されて行く。谿谷の極まるところには峠があって、その向う側にはまた他の谿谷が始まる、それを次・・・ 寺田寅彦 「夏」
出典:青空文庫