・・・突然その部屋の壁の向こうに、――たしかに詩人のトックの家に鋭いピストルの音が一発、空気をはね返すように響き渡りました。十三 僕らはトックの家へ駆けつけました。トックは右の手にピストルを握り、頭の皿から血を出したまま、高山植物・・・ 芥川竜之介 「河童」
・・・「へん、そう云う危い橋なら、渡りつけているだろうに、――」「冗談云っちゃいけない。人間の密輸入はまだ一度ぎりだ。」 田宮は一盃ぐいとやりながら、わざとらしい渋面をつくって見せた。「だがお蓮の今日あるを得たのは、実際君のおかげ・・・ 芥川竜之介 「奇怪な再会」
上 何心なく、背戸の小橋を、向こうの蘆へ渡りかけて、思わず足を留めた。 不図、鳥の鳴音がする。……いかにも優しい、しおらしい声で、きりきり、きりりりり。 その声が、直ぐ耳近に聞こえたが、つい目前・・・ 泉鏡花 「海の使者」
・・・自分はなお一渡り奥の方まで一見しようと、ランプに手を掛けたら、どうかした拍子に火は消えてしまった。後は闇々黒々、身を動かせば雑多な浮流物が体に触れるばかりである。それでも自分は手探り足探りに奥まで進み入った。浮いてる物は胸にあたる、顔にさわ・・・ 伊藤左千夫 「水害雑録」
・・・ 軽焼は本と南蛮渡りらしい。通称丸山軽焼と呼んでるのは初めは長崎の丸山の名物であったのが後に京都の丸山に転じたので、軽焼もまた他の文明と同じく長崎から次第に東漸したらしい。尤も長崎から上方に来たのはかなり古い時代で、西鶴の作にも軽焼の名・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
・・・やっと、日暮れ前に、一つの丸木橋を見いだしましたので、彼女は、喜んでその橋を渡りますと、木が朽ちていたとみえて、橋が真ん中からぽっきり二つに折れて、娘は水の中におぼれてしまいました。「死んでも、魂だけは、故郷に帰りたい。」と、死のまぎわ・・・ 小川未明 「海ぼたる」
・・・いったいこの土地は昔からの船着場で、他国から流れ渡りの者が絶えず入りこむ。私のようなことを言って救いを乞いに廻る者も希しくないところから、また例のぐらいで土地の者は対手にしないのだ。 私は途方に晦れながら、それでもブラブラと当もなしに町・・・ 小栗風葉 「世間師」
・・・風がそのあたりを吹いて渡り、遠いながめだった。 ふと、湯気のにおいが漂うて来た。光っていた木犀の香が消された。 風通しの良い部屋をと言うと、二階の薄汚い六畳へ通された。先に立った女中が襖をひらいた途端、隣室の話し声がぴたりとやんだ。・・・ 織田作之助 「秋深き」
・・・耕吉は橋を渡り、汽車に乗って、窓から顔を出していたが、やがてプラットホームの混雑も薄れてきても、小僧も巡査の姿も見えないので、「やっぱしだめなんだろう」とも思っていたが、発車間ぎわになって、小僧は前になり巡査は後から剣をがちゃがちゃさせなが・・・ 葛西善蔵 「贋物」
・・・――堯が模ねをやめると、愛想もなく、下枝の間を渡りながら行ってしまった。 低地を距てて、谷に臨んだ日当りのいいある華族の庭が見えた。黄に枯れた朝鮮芝に赤い蒲団が干してある。――堯はいつになく早起きをした午前にうっとりとした。 しばら・・・ 梶井基次郎 「冬の日」
出典:青空文庫