・・・省作は頭の後ろを桶の縁へつけ目をつぶって温まりながら、座敷の話に耳をそばだてる。やっぱりそのごやごやした話し声の中からおとよさんの声を聞き出そうとするような心も、頭のどこかに働いている。声はたしかに五郎兵衛婆さんだ。「そら金公の嬶がさ、・・・ 伊藤左千夫 「隣の嫁」
・・・も飲まず、ただそこらじゅう拭きまわるよりほかに何一つ道楽のなかった伊助が、横領されやしないかとひやひやしてきた寺田屋がはっきり自分のものになった今、はじめて浄瑠璃を習いたいというその気持に、登勢は胸が温まり、お習いやす、お習いやす…… ・・・ 織田作之助 「螢」
・・・客は河豚で温まり、てかてかした頬をして、丹前の上になにも羽織っていなかった。鼻が大きい。 その顔を見るなり、易者はあくびが止った。みるみる皮膚が痛み、真蒼な痙攣が来た。客の方も気づいて、びっくりした顔だった。睨みつけたまま通りすぎようと・・・ 織田作之助 「雪の夜」
・・・かくて温まりし掌もて心地よげに顔を摩りたり。いたく古びてところどころ古綿の現われし衣の、火に近き裾のあたりより湯気を放つは、朝の雨に霑いて、なお乾すことだに得ざりしなるべし。 あな心地よき火や。いいつつ投げやりし杖を拾いて、これを力に片・・・ 国木田独歩 「たき火」
・・・共同出兵と云っている癖に、アメリカ兵は、たゞ町の兵営でペーチカに温まり、午後には若い女をあさりにロシア人の家へ出かけて行く。そこで偽札を水のように撒きちらす。それが仕事だった。而もその札は、鮮銀の紙幣そっくりそのまゝのものだった。出兵が始ま・・・ 黒島伝治 「氷河」
・・・そして過ぎ去った青春の夢は今幾何の温まりを霜夜の石の床にかすであろうか。 彼はたぶん志を立てた事もあろう。そして今幾何の効果を墓の下に齎そうとしているのであろう。 このような取り止めのない妄想に耽っている間に、老人の淋しい影は何処と・・・ 寺田寅彦 「凩」
・・・彼は腹の下の床石が温まり始めると、新鮮な水を追う魚のように、また大理石の新しい冷たさの上を這い廻った。 丁度その時、鏡のような廻廊から、立像を映して近寄って来るルイザの桃色の寝衣姿を彼は見た。 彼は起き上ることが出来なかった。何ぜな・・・ 横光利一 「ナポレオンと田虫」
出典:青空文庫