・・・ かなぐり脱いだ法衣を投げると、素裸の坊主が、馬に、ひたと添い、紺碧なる巌の聳つ崕を、翡翠の階子を乗るように、貴女は馬上にひらりと飛ぶと、天か、地か、渺茫たる広野の中をタタタタと蹄の音響。 蹄を流れて雲が漲る。…… 身を投じた紫・・・ 泉鏡花 「伯爵の釵」
・・・ただ波頭が白く見えるかと思うと消えたりして、渺茫とした海原を幾百万の白いうさぎの群れが駆けまわっているように思われました。 毎夜のように町では戸を閉めてから火鉢やこたつに当たりながら、家内の人々がいろいろの話をしていますと、沖の方で遠鳴・・・ 小川未明 「黒い旗物語」
・・・ 船はいつか小名木川の堀割を出で、渺茫たる大河の上に泛んでいる。対岸は土地がいかにも低いらしく、生茂る蘆より外には、樹木も屋根も電柱も見えない。此方の岸から水の真中へかけて、草も木もない黄色の禿山が、曇った空に聳えて眺望を遮っている。今・・・ 永井荷風 「放水路」
・・・風号び雲走り、怒濤澎湃の間に立ちて、動かざること巌の如き日蓮上人の意気は、壮なることは壮であるが、煙波渺茫、風静に波動かざる親鸞上人の胸懐はまた何となく奥床しいではないか。 西田幾多郎 「愚禿親鸞」
・・・寧ろ、生理的にだか伝統によってだか女性全般に共通なあの奇妙な渺茫さ、どこやら急処でもう一息というような生活意識の不明瞭さ、それ等が少くとも原因の一部なのではないのだろうか。〔一九二五年七月〕・・・ 宮本百合子 「わからないこと」
出典:青空文庫