ウェルダアの桜 大きな河かと思うような細長い湖水を小蒸気で縦に渡って行った。古い地質時代にヨーロッパの北の半分を蔽っていた氷河が退いて行って、その跡に出来た砂原の窪みに水の溜ったのがこの湖とこれに連なる沢・・・ 寺田寅彦 「異郷」
・・・ スコットランドの湖水に怪物が現われたというのでえらい評判であった。しかし現代のジャーナリズムは、まだまだ恐ろしいいろいろの怪物を毎朝毎夕製造しては都大路から津々浦々に横行させているのである。そうして、それらの怪物よりもいっそう恐ろしく・・・ 寺田寅彦 「ジャーナリズム雑感」
・・・スイスの湖水と氷河の幻はそれから約二十年の間自分につきまとっていた。そうしてとうとう身親しくその地をおとずれる日が来たのであったが、その時からまたさらに二十年を隔てた今の自分には、この油絵のスイスと、現実に体験したスイスとの間の差別の障壁は・・・ 寺田寅彦 「青衣童女像」
・・・屋根を越しては、廟の前なる平地が湖水の面のように何ともいえぬほど平かに静に見えた。二重にも三重にも建て廻らされた正方形なる玉垣の姿と、並んだ石燈籠の直立した形と左右に相対して立つ御手洗の石の柱の整列とは、いずれも幽暗なる月の光の中に、浮立つ・・・ 永井荷風 「霊廟」
・・・優れたフランスの思想家の書いたものには、ショペンハウエルが深くて明徹なスウィスの湖水に喩えたようなものが感ぜられる。私はアンリ・ポアンカレのものなどにそういうものを感ずるのである。 我国では明治の初年は如何にあったか知らないが、大体・・・ 西田幾多郎 「フランス哲学についての感想」
・・・主人誇りがにこは湖水の産にしてここの名物なりという。名を問えば赤腹となん答えける。面白き秋の名なりけり。これより山を下るに見渡す限り皆薄なり。箱根の関はいずちなりけんと思うものから問うに人なく探るに跡なし。これらや歌人の歌枕なるべきとて・・・ 正岡子規 「旅の旅の旅」
・・・ 先生、うんざりする雨の後に、急に甦って輝く森林や湖水、其等の上に躍る日光は、何と云う美くしさでございましょう。水溜を跳び越えながら、一寸頭を擡げて空を仰ぐ若い女の影。馳け廻る犬の愉快なスニッフ。 陰影が出来、光輝を与えられて漸々立体的・・・ 宮本百合子 「C先生への手紙」
・・・ 息もつまりそうにうっそうと茂ったエルムの梢を、そよりとも動かす微風もなくて、静かに横わった湖水から、彼岸の山にかけて、むっとした息のような霞が掛って居る。何時とはなく肌がしめるような部屋で机に倚りながら、東京ももうさぞ暑い事だろうなと・・・ 宮本百合子 「樹蔭雑記」
・・・殊にわたくしは、湖水や溪流のある山を好みます。ですから、わたくしは今まで「疲れた、海へでもゆこうかしら」なぞとは言ったことがない。いつも「山へ」と思います。 温泉もすきです。しかし、設備のいいところでなければいやです。尤も設備の整った温・・・ 宮本百合子 「身辺打明けの記」
・・・一九四一年に第二部「湖水の星」が完成したが、それはナチス軍のソ連侵入の二月前に仕上った。原稿はそのままリヴォフ市にのこされ、リヴォフ市が赤軍に奪還されるまで四ヵ年ちかくかくされたままであった。「湖水の星」は、ナチスの侵略で旧いポーランドの権・・・ 宮本百合子 「ワンダ・ワシレーフスカヤ」
出典:青空文庫