・・・しばらくして顔を挙げ、笑いをこらえているように、下唇を噛んで、ぽっと湯上りくらいに赤らんでいる顔を仰向けて、乱れた髪を掻きあげ、それから、急にまじめになって私のほうにまっすぐに向き直り、「安心してけせ。わたしも、馬鹿でごいせん。来たら来・・・ 太宰治 「嘘」
・・・それで私は表通りへ出て、二階を仰ぎ、奥さん、おねえさん、奥さん、おねえさん、と小声で呼んでみましたが、もう眠ってしまったのかどうだか、二階はまっくらで、そうして何の反応もございません。湯上りのからだに秋風がしみて、ひどくいまいましい気持にな・・・ 太宰治 「男女同権」
・・・さればいよいよ湯上りの両肌脱ぎ、家が潰れようが地面が裂けようが、われ関せず焉という有様、身も魂も打込んで鏡に向う姿に至っては、先生は全くこれこそ、日本の女の最も女らしい形容を示す時であると思うのである。幾世紀の洗練を経たる Alexandr・・・ 永井荷風 「妾宅」
・・・座附女優諸嬢の妖艶なる湯上り姿を見るの機を得たのもこの時を以て始めとする。但し帝国劇場はこの時既に興行十年の星霜を経ていた。 わたしはこの劇場のなおいまだ竣成せられなかった時、恐らくは当時『三田文学』を編輯していた故であろう。文壇の諸先・・・ 永井荷風 「十日の菊」
・・・この周囲と一致して日本の女の最も刺戟的に見える瞬間もやはり夏の夕、伊達巻の細帯にあらい浴衣の立膝して湯上りの薄化粧する夏の夕を除いて他にはあるまい。 町中の堀割に沿うて夏の夕を歩む時、自分は黙阿弥翁の書いた『島鵆月白浪』に雁金に結びし蚊・・・ 永井荷風 「夏の町」
・・・ うちでは三日夜寿江子が帰り、五日午後咲枝が腕に赤ん坊を抱いて、湯上りのような顔をして帰宅しました。これで一家の顔が揃い、私は病人に戻ってよいわけですが、泰子を誰がひき受けるかということもきまらず、女中の一人が兄貴にけんかをふっかけさせ・・・ 宮本百合子 「獄中への手紙」
・・・さっき髪を洗って長火鉢のところでお茶をのんでいたら、トルストイの結婚の幸福の中に、女主人公である娘が、領地のテラスで湯上りで、ぬれている髪に白いきれをかぶってくつろいでお茶をのんでいるところへ、後良人となる男の人がゆくところが描かれていたの・・・ 宮本百合子 「獄中への手紙」
・・・ 或る時、湯上りに爪を剪っていた。左の指をずっと剪って、右の方になったとき、思い出すともなく思い出して拇指の裏を見たら、魚のめのようなものは二つ、いつの間にかすっかり消えてしまっている。指紋が綺麗に流れていて、その間に小さい島のように一・・・ 宮本百合子 「鼠と鳩麦」
・・・通りよい櫛の歯とあたたかそうな湯上りの耳朶を早い春の風が掠める。……空気全体、若い、自由を愉しむ足並みで響いて居るようであった。今日は書き入れ日だ! プーウ、プカプカ、ドン、プーウ。活動写真館の音楽隊は、太鼓、クラリネットを物干しまで持ち出・・・ 宮本百合子 「町の展望」
・・・ 廊下でこんな事を云ったのに、あの何とも云われないお湯の香り、おだやかな鏡の光り、こんなものにさそわれてとうとう入ってしまった。湯上りのポーッとした着物(をうすい着物につつんで、二人は鏡の前に座った。「これからどうしましょうネ、なん・・・ 宮本百合子 「芽生」
出典:青空文庫