・・・温泉の水口はとめられていて、乾あがった湯槽には西日がさしこみ、楢の落葉などが散っていた。白樺の細い丸木を組んだ小橋が、藪柑子の赤い溝流れの上にかかったりしていたところからそこへ入って行ったので、乾きあがって人気ない湯殿の内部は大層寂しく私た・・・ 宮本百合子 「上林からの手紙」
・・・それからお風呂の時桶や湯槽の縁をよく注意して、眼へバイキンなど入れぬよう、呉々お願いいたします。私の心配と云うのも謂わばそのようなことが主なのですから。―― 今夜本当は帝劇へベルクナーという女優が主演している女の心という映画を見に行こう・・・ 宮本百合子 「獄中への手紙」
・・・台所で使う湯と同じボイラーで沸し、白いタイルで張りつめた、明るい浴室の湯槽に、なみなみと一杯にする。 別に脱衣室と云うようなものはなくても、浴室の扉の内側に、衣服をかけて置き、洗流し式のW・C・も、洗面台も、皆此室にとりつける。 従・・・ 宮本百合子 「書斎を中心にした家」
・・・強い硫黄の香が漂い、歩きながら人気ない幾つもの湯槽が見下せた。湯槽を仕切る板壁に沢山柄杓がかかっていた。井とか、中村、S・Sなどと柄杓の底に墨で書いてある。 そこを過ぎると、人家のない全くの荒地であった。右にも左にも丘陵の迫った真中が一・・・ 宮本百合子 「白い蚊帳」
・・・小銭湯の様な特別の湯槽をだれかの家へあずけて、湯のないものは、その家の家族のとは違った湯槽に入る様にしたらいいだろうのにと祖母にも云ったけれ共、湯のたて廻しなどが平常気の置けない交際機関になって居るので、今急にそれをやめれば皆が不自由するし・・・ 宮本百合子 「農村」
・・・窓から二米はなれて湯槽があった。黒い髪だけが湯槽の外へ見えた この間こんな絵を見た。やっぱり今ここに在る通り湯槽から頭だけが見えて居る。これは禿げた爺のロチョー部だったが、戸が一寸すいて八つの眼玉がその禿をのぞいた。――いつ出るんだろう・・・ 宮本百合子 「無題(七)」
・・・清らかに澄んだ湯に脚をひたして湯槽の端に腰をかけている女の、肉付きのいい肌の白い後ろ姿が、ほの白い湯気の内にほんのりと浮き出ている。その融けても行きそうな体は、裸に釣り合うように古風に結ばれた髪の黒さで、急にハッキリとした形に結晶する。湯の・・・ 和辻哲郎 「院展遠望」
出典:青空文庫