・・・神父の怒に満ちた言葉もわかったのかどうかはっきりしない。神父はほとんどのしかかるように鬚だらけの顔を突き出しながら、一生懸命にこう戒め続けた。「まことの神をお信じなさい。まことの神はジュデアの国、ベレンの里にお生まれになったジェズス・キ・・・ 芥川竜之介 「おしの」
・・・ 明い電燈の光に満ちた、墓窖よりも静な寝室の中には、やがてかすかな泣き声が、途切れ途切れに聞え出した。見るとここにいる二人の陳彩は、壁際に立った陳彩も、床に跪いた陳彩のように、両手に顔を埋めながら……… 東京。 突然『影』の・・・ 芥川竜之介 「影」
・・・喉も裂け破れる一声に、全身にはり満ちた力を搾り切ろうとするような瞬間が来た。その瞬間にクララの夢はさめた。 クララはアグネスの眼をさまさないようにそっと起き上って窓から外を見た。眼の下には夢で見たとおりのルフィノ寺院が暁闇の中に厳かな姿・・・ 有島武郎 「クララの出家」
・・・ところがこの論理の不徹底な、矛盾に満ちた、そして椏者の言葉のように、言うべきものを言い残したり、言うべからざるものを言い加えたりした一文が、存外に人々の注意を牽いて、いろいろの批評や駁撃に遇うことになった。その僕の感想文というのは、階級意識・・・ 有島武郎 「片信」
・・・ この時フレンチは全く予期していない事を見て、気の狂う程の恐怖が自分の脳髄の中に満ちた。動かないように、椅子に螺釘留にしてある、金属のの上に、ちくちくと閃く、青い焔が見えて、の縁の所から細い筋の烟が立ち升って、肉の焦げる、なんとも言えな・・・ 著:アルチバシェッフミハイル・ペトローヴィチ 訳:森鴎外 「罪人」
雨を含んだ風がさっと吹いて、磯の香が満ちている――今日は二時頃から、ずッぷりと、一降り降ったあとだから、この雲の累った空合では、季節で蒸暑かりそうな処を、身に沁みるほどに薄寒い。…… 木の葉をこぼれる雫も冷い。……糠雨がまだ降って・・・ 泉鏡花 「貝の穴に河童の居る事」
・・・蘆の穂に、橋がかかると渡ったのは、横に流るる川筋を、一つらに渺々と汐が満ちたのである。水は光る。 橋の袂にも、蘆の上にも、随所に、米つき虫は陽炎のごとくに舞って、むらむらむらと下へ巻き下っては、トンと上って、むらむらとまた舞いさがる。・・・ 泉鏡花 「小春の狐」
・・・ こころ満ちたる者は親しみがたしといえば、少し悪い意味にとらるる恐れがあるけれど、そういう毒をふくんだ意味でなく公明な批判的の意味でみて、人生上ある程度以上に満足している人には、深く人に親しみ、しんから人を懐しがるということが、どうして・・・ 伊藤左千夫 「去年」
・・・彼女は実に義侠心に充ち満ちておった女であります。彼女は何というたかというに、彼女の女生徒にこういうた。 他の人の行くことを嫌うところへ行け。 他の人の嫌がることをなせ これがマウント・ホリヨーク・セミナリーの立った土台石・・・ 内村鑑三 「後世への最大遺物」
・・・丁度向うで女学生の頸の創から血が流れて出るように、胸に満ちていた喜が逃げてしまうのである。「これで敵を討った」と思って、物に追われて途方に暮れた獣のように、夢中で草原を駆けた時の喜は、いつか消えてしまって、自分の上を吹いて通る、これまで覚え・・・ 著:オイレンベルクヘルベルト 訳:森鴎外 「女の決闘」
出典:青空文庫