・・・何小二が鞍の前輪へつっぷすが早いか、一声高く嘶いて、鼻づらを急に空へ向けると、忽ち敵味方のごったになった中をつきぬけて、満目の高粱畑をまっしぐらに走り出した。二三発、銃声が後から響いたように思われるが、それも彼の耳には、夢のようにしか聞えな・・・ 芥川竜之介 「首が落ちた話」
・・・ 杖は※状算を乱して、満目転た荒涼たり。 いつも変らぬことながら、お通は追懐の涙を灌ぎ、花を手向けて香を燻じ、いますが如く斉眉きて一時余も物語りて、帰宅の道は暗うなりぬ。 急足に黒壁さして立戻る、十間ばかり間を置きて、背後よりぬ・・・ 泉鏡花 「妖僧記」
・・・同十九日――「天晴れ、風清く、露冷やかなり。満目黄葉の中緑樹を雑ゆ。小鳥梢に囀ず。一路人影なし。独り歩み黙思口吟し、足にまかせて近郊をめぐる」同二十二日――「夜更けぬ、戸外は林をわたる風声ものすごし。滴声しきりなれども雨はすでに止み・・・ 国木田独歩 「武蔵野」
・・・独り国民を挙つて詩化し満目詩料ならざるなく、国民品性の極致を発露し口を開いて賛すべく、嘆すべく、歌ふべく、賦すべきの事に満つる戦時に於て、文士或は却て筆を収めむとするは何ぞや。」 以て如何に熱狂的だったかが知れるだろう。今度は、・・・ 黒島伝治 「明治の戦争文学」
・・・ 満目の稲田。緑の色が淡い。津軽平野とは、こんなところだったかなあ、と少し意外な感に打たれた。その前年の秋、私は新潟へ行き、ついでに佐渡へも行ってみたが、裏日本の草木の緑はたいへん淡く、土は白っぽくカサカサ乾いて、陽の光さえ微弱に感ぜら・・・ 太宰治 「帰去来」
・・・稲はすっかり刈り取られて、満目の稲田には冬の色が濃かった。「僕には、そうも見えないが。」 その時の私には故郷を誇りたい気持も起らなかった。ひどく、ただ、くるしい。去年の夏は、こうではなかった。それこそ胸をおどらせて十年振りの故郷の風物を・・・ 太宰治 「故郷」
・・・二百十日の風と雨と煙りは満目の草を埋め尽くして、一丁先は靡く姿さえ、判然と見えぬようになった。「もう日が暮れるよ。おい。いるかい」 谷の中の人は二百十日の風に吹き浚われたものか、うんとも、すんとも返事がない。阿蘇の御山は割れるばかり・・・ 夏目漱石 「二百十日」
・・・かつて私の或る知人が、シベリヤ鉄道の旅行について話したことは、あの満目荒寥たる無人の曠野を、汽車で幾日も幾日も走った後、漸く停車した沿線の一小駅が、世にも賑わしく繁華な都会に見えるということだった。私の場合の印象もまた、おそらくはそれに類し・・・ 萩原朔太郎 「猫町」
・・・いやしくも我が一身の内に美ならんか、身外満目の醜美は以て我が美を軽重するに足らず。あるいはこれに反して我が身に一点の醜を包蔵せんか、満天下に無限の醜を放つものあるも、その醜は以て我が醜を浄むるに足らず、また恕するに足らず。されば文明なる西洋・・・ 福沢諭吉 「日本男子論」
・・・これは去年病中に『水滸伝』を読んだ時に、望見前面、満目蘆花、一派大江、滔々滾々、正来潯陽江辺、只聴得背後喊叫、火把乱明、吹風胡哨将来、という景色が面白いと感じて、こんな景色が俳句になったら面白かろうと思うた事があるので、川の景色の聯想から、・・・ 正岡子規 「句合の月」
出典:青空文庫