・・・生理的な終結はあっても、空想の満足がなかった。そのことはだんだん重苦しく彼の心にのしかかって来た。そのうちに彼は晴ればれとした往来へ出ても、自分に萎びた古手拭のような匂いが沁みているような気がしてならなくなった。顔貌にもなんだかいやな線があ・・・ 梶井基次郎 「ある崖上の感情」
・・・東京に出てから、自分は画を思いつつも画を自ら書かなくなり、ただ都会の大家の名作を見て、僅に自分の画心を満足さしていたのである。 ところが自分の二十の時であった、久しぶりで故郷の村落に帰った。宅の物置にかつて自分が持あるいた画板があったの・・・ 国木田独歩 「画の悲み」
・・・すべての男性が家庭的で、妻子のことのみかかわって、日曜には家族的のトリップでもするということで満足していたら、人生は何たる平凡、常套であろう。男性は獅子であり、鷹であることを本色とするものだ。たまに飛び出して巣にかえらぬときもあろう。あまり・・・ 倉田百三 「愛の問題(夫婦愛)」
・・・その時の、自分の声が、朗らかにすき通って、いい響きを持っていたのを大隊長は満足に思った。 ――今持っている旭日章のほかに、彼は年金のついている金鵄勲章を貰うことになる。俸給以外に、三百円か五百円、遊んでいても金が這入ってくることになるの・・・ 黒島伝治 「パルチザン・ウォルコフ」
・・・と、それほど立入った細かい筋路がある訳では無いが、何となく和楽の満足を示すようなものが見える。その別に取立てて云うほどの何があるでも無い眼を見て、初めて夫がホントに帰って来たような気がし、そしてまた自分がこの人の家内であり、半身であると無意・・・ 幸田露伴 「鵞鳥」
・・・わたくしは、長寿かならずしも幸福ではなく、幸福はただ自己の満足をもって生死するにありと信じていた。もしまた人生に、社会的価値とも名づけるべきものがあるとすれば、それは、長寿にあるのではなくて、その人格と事業とか、四囲および後代におよぼす感化・・・ 幸徳秋水 「死刑の前」
・・・何か特別の用事でもないかぎり、私は樹木の多いこの町の界隈を歩き回るだけに満足した。そして、散歩の途中でも家のことが気にかかって来るのが私の癖のようになってしまった。「とうさん、僕たちが留守居するよ。」と、次郎なぞが言ってくれる日を迎えても、・・・ 島崎藤村 「嵐」
・・・しかしこればかりでは地球がいやでも西から東に転ずるのと少しも違ったところはない、徹した心持がない、生きていない、不満足である。そこでいろいろ考えて見ると、どうもやはりその底に撞きあたるものは神でも真理でもなくして、自己という一石であるように・・・ 島村抱月 「序に代えて人生観上の自然主義を論ず」
・・・先からの犬はそれを見て、さも満足したように尾をふりました。それからは毎朝ふたりで出て来ました。ふたりとも店の中へは、めったにはいらないで、しき石の上にすわっていたり、そこいらを歩いて来たりします。ふたりがけんかなぞをしたことは、ただの一ども・・・ 鈴木三重吉 「やどなし犬」
・・・動物的な、満足である。下品な話だ。……」 私は、未だ中学生であったけれども、長兄のそんな述懐を、せっせと筆記しながら、兄を、たまらなく可哀想に思いました。A県の近衛公だなぞと無智なおだてかたはしても、兄のほんとうの淋しさは、誰も知らない・・・ 太宰治 「兄たち」
出典:青空文庫