・・・ 弥生の末から、ちっとずつの遅速はあっても、花は一時に咲くので、その一ならびの塀の内に、桃、紅梅、椿も桜も、あるいは満開に、あるいは初々しい花に、色香を装っている。石垣の草には、蕗の薹も萌えていよう。特に桃の花を真先に挙げたのは、むかし・・・ 泉鏡花 「絵本の春」
・・・……お旦那、軒の八重桜は、三本揃って、……樹は若えがよく咲きました。満開だ。――一軒の門にこのくらい咲いた家は修善寺中に見当らねえだよ。――これを視めるのは無銭だ。酒は高価え、いや、しかし、見事だ。ああ、うめえ。万屋 くだらない事を言い・・・ 泉鏡花 「山吹」
・・・さし俯向いた頸のほんのり白い後姿で、捌く褄も揺ぐと見えない、もの静かな品の好さで、夜はただ黒し、花明り、土の筏に流るるように、満開の桜の咲蔽うその長坂を下りる姿が目に映った。 ――指を包め、袖を引け、お米坊。頸の白さ、肩のしなやかさ、余・・・ 泉鏡花 「縷紅新草」
・・・お庭の満開の桃の花が私を見送っていて、思わずふりかえったが、私は花を見て居るのではなかった。その満開の一枝に寒くぶらんとぶらさがっている縄きれを見つめていた。あの縄をポケットに仕舞って行こうか。門のそとの石段のうえに立って、はるか地平線を凝・・・ 太宰治 「狂言の神」
・・・武田神社は、武田信玄を祭ってあって、毎年、四月十二日に大祭があり、そのころには、ちょうど境内の桜が満開なのである。四月十二日は、信玄が生れた日だとか、死んだ日だとか、家内も妹も仔細らしく説明して呉れるのだが、私には、それが怪しく思われる。サ・・・ 太宰治 「春昼」
・・・変らず、身辺の良友の言を聴き、君の遠大の浪漫を、見事に満開なさるよう御努力下さい。 太宰治 「砂子屋」
・・・湯村のその大衆浴場の前庭には、かなり大きい石榴の木が在り、かっと赤い花が、満開であった。甲府には石榴の樹が非常に多い。 浴場は、つい最近新築されたものらしく、よごれが無く、純白のタイルが張られて明るく、日光が充満していて、清楚の感じであ・・・ 太宰治 「美少女」
・・・花は満開のうちに眺むべきである。私は晩成の芸術というものを否定している。難解「太初に言あり。言は神と偕にあり。言は神なりき。この言は太初に神とともに在り。万の物これに由りて成り、成りたる物に一つとして之によらで成りたるはなし・・・ 太宰治 「もの思う葦」
・・・一粒の草花の種子が発芽してから満開するまでの変化を数分の間に完了させることもできる一方では、また、弾丸が銃口を出て行く瞬間にこれに随伴する煙の渦環や音波の影の推移をゆるゆると見物することもできる。眠っているように思っている植物が怪獣のごとく・・・ 寺田寅彦 「映画の世界像」
・・・つまり、十分前には一つも開いていなかったのが十分後にはことごとく満開しているのである。実に驚くべき現象である。 からすうりの花は「花の骸骨」とでもいった感じのするものである。遠くから見ると吉野紙のようでもありまた一抹の煙のようでもある。・・・ 寺田寅彦 「からすうりの花と蛾」
出典:青空文庫