・・・ たしかに安子は気位が高く、男の子からいじめられたり撲られたりしても、逃げも泣きもせず涙を一杯溜めた白い眼で、いつまでも相手を睨みつけていた。かと思うと、些細なことで気にいらないことがあると、キンキンした疳高い声で泣き、しまいには外行き・・・ 織田作之助 「妖婦」
・・・宵のうち人びとが掴まされたビラの類が不思議に街の一と所に吹き溜められていたり、吐いた痰がすぐに凍り、落ちた下駄の金具にまぎれてしまったりする夜更けを、彼は結局は家へ帰らねばならないのだった。「何をしに自分は来たのだ」 それは彼のなか・・・ 梶井基次郎 「冬の日」
・・・ 黒竜江にはところどころ結氷を破って、底から上ってくる河水を溜め、荷馬車を引く、咽頭が乾いた馬に水をのませるのを商売とする支那人が現れた。いくら渇を覚えても、氷塊を破って馬に喰わせるわけには行かない。支那人は一回、銅片一文を取って馬に水・・・ 黒島伝治 「国境」
・・・それに彼は、いくらか小金を溜めて、一割五分の利子で村の誰れ彼れに貸付けたりしていた。ついすると、小作料を差押えるにもそれが無いかも知れない小作人とは、彼は類を異にしていた。けれども、一家が揃って慾ばりで、宇一はなお金を溜るために健二などゝ一・・・ 黒島伝治 「豚群」
・・・そこでまた思い切ってその翌朝、今度は団飯もたくさんに用意する、銭も少しばかりずつ何ぞの折々に叔父に貰ったのを溜めておいたのをひそかに取り出す、足ごしらえも厳重にする、すっかり仕度をしてしまって釜川を背後に、ずんずんずんずんと川上に上った。や・・・ 幸田露伴 「雁坂越」
・・・ お新はもう眼に一ぱい涙を溜めていた。その力を籠めた言葉には年老いた母親を思うあわれさがあった。「昨日は俺も見ていた。そうしたら、おばあさんがここのお医者さまに叱られているのさ」 この三吉の子供らしい調子はお新をも婆やをも笑わせ・・・ 島崎藤村 「ある女の生涯」
・・・それと同時に胸に一ぱい息を溜めた。そしてその息を唇から外へ洩らすまいとしたが、とうとう力のないうめきになって洩れた。そのうめきのうちに早口に囁くような詞が聞えた。「いやだ、いやだ。」そして両手を隠しから出した。幅の広い鉄で鍛えたような鍛冶職・・・ 著:シュミットボンウィルヘルム 訳:森鴎外 「鴉」
・・・でも、買い溜めは、あさましくて、いやだ。履物、六円六十銭。ほかにクリイム、三十五銭。封筒、三十一銭などの買い物をして帰った。 帰って暫くすると、早大の佐藤さんが、こんど卒業と同時に入営と決定したそうで、その挨拶においでになったが、生憎、・・・ 太宰治 「十二月八日」
・・・ ある時は顎の間に灰色の泡立った物質をいっぱい溜めている事が眼についた。そして壁を延ばす代りに穴の中へ頭を挿しこんで内部の仕事をやっている事もあった。しかしそれがどういう目的で何をしているのだか自分には分らなかった。 そのうちに私は・・・ 寺田寅彦 「小さな出来事」
・・・ でもお芳の方はいくらか溜めているらしかった。 その金瓶楼主が、きっと多勢引率して芝居にくるだろうと、お絹は思っていたので、電話がかかってくると、飛んでいって受話機を取った。「芳沢さんや」お絹がかけ手の声をきくと、そう言って笑い・・・ 徳田秋声 「挿話」
出典:青空文庫