・・・という日を、まるで溺れるものが掴む藁のように、いや、刑務署にいる者が指折って数える出獄日のように、私は待っていた。 人にこのことを話すと、「八月二十日にいいことがあるというのか。ふーむ。八月二十日といえば勝札の抽籤の発表のある日じゃ・・・ 織田作之助 「終戦前後」
・・・もし今度も墜落であったなら、泳ぎのできるK君です。溺れることはなかったはずです。 K君の身体は仆れると共に沖へ運ばれました。感覚はまだ蘇えりません。次の浪が浜辺へ引き摺りあげました。感覚はまだ帰りません。また沖へ引き去られ、また浜辺へ叩・・・ 梶井基次郎 「Kの昇天」
・・・もし傘が一本、そのときの私にあったならば、私は死なずにすんだのかも知れない。溺れる者のわら一すじ。深く、けわしく、よろめいた。誓う。あなたのためには身を粉にして努める。生きてゆくから、叱らないで下さい。けれどもそれだけのことであった。語らざ・・・ 太宰治 「狂言の神」
・・・すべての自然の風景を、理智に依って遮断し、取捨し、いささかも、それに溺れることなく、謂わば「既成概念的」な情緒を、薔薇を、すみれを、虫の声を、風を、にやりと薄笑いして敬遠し、もっぱら、「我は人なり、人間の事とし聞けば、善きも悪しきも他所事と・・・ 太宰治 「八十八夜」
・・・た野性の薔薇が、ただもう珍らしく、ひとつき、ふたつき暮してみると、いよいよラプンツェルの突飛な思考や、残忍なほどの活溌な動作、何ものをも恐れぬ勇気、幼児のような無智な質問などに、たまらない魅力を感じ、溺れるほどに愛しました。寒い冬も過ぎ、日・・・ 太宰治 「ろまん燈籠」
・・・ 仲間の人たちは、助け出そうとしましたけれど、水の中へ溺れるように、石の下へ私の恋人は沈んで行きました。そして、石と恋人の体とは砕け合って、赤い細い石になって、ベルトの上へ落ちました。ベルトは粉砕筒へ入って行きました。そこで鋼鉄の弾丸と・・・ 葉山嘉樹 「セメント樽の中の手紙」
・・・実は私はその日までもし溺れる生徒ができたら、こっちはとても助けることもできないし、ただ飛び込んでいって一緒に溺れてやろう、死ぬことの向う側まで一緒についていってやろうと思っていただけでした。全く私たちにはそのイギリス海岸の夏の一刻がそんなに・・・ 宮沢賢治 「イギリス海岸」
・・・あっぷあっぷ溺れるまねをしたりなんかもするねえ、そんなことをしてふざけながらちゃんと魚をつかまえるんだからえらいや、魚をつかまえてこんどは大威張りで又氷にあがるんだ。魚というものは本当にばかなもんだ、ふざけてさえ居れば大丈夫こわくないと思っ・・・ 宮沢賢治 「風野又三郎」
・・・ どんな偉い王様も、獣も皆溺れるのにノアだけ生きて広い世界中を旅行すると云う事は何と云う幸な事であろう。 若しお叔父ちゃんの話す様に神様は偉いなら、お願いさえすればきっと自分もノアにして下さるだろうと云う事を思わない訳には行かなかっ・・・ 宮本百合子 「追憶」
・・・龍江には異常な霊の力があって、海に溺れる運命だった弟の命を救ったり、一ぺんも行ったことのない愛人の書斎に、古賀春江の絵と広重の版画とがかかっていて、雪の降る日背中に赤ん坊を背負った男が偶然雪かきをやらせてもらいに来たりするところまでをあてる・・・ 宮本百合子 「文芸時評」
出典:青空文庫