・・・とは何かと云うと、これはイエス・クリストの呪を負って、最後の審判の来る日を待ちながら、永久に漂浪を続けている猶太人の事である。名は記録によって一定しない。あるいはカルタフィルスと云い、あるいはアハスフェルスと云い、あるいはブタデウスと云い、・・・ 芥川竜之介 「さまよえる猶太人」
・・・ ほおけた尾花のつづいた大野には、北国めいた、黄葉した落葉松が所々に腕だるそうにそびえて、その間をさまよう放牧の馬の群れはそぞろに我々の祖先の水草を追うて漂浪した昔をおもい出させる。原をめぐった山々はいずれもわびしい灰色の霧につつまれて・・・ 芥川竜之介 「日光小品」
・・・妻は良人の心持ちが分るとまた長い苦しい漂浪の生活を思いやっておろおろと泣かんばかりになったが、夫の荒立った気分を怖れて涙を飲みこみ飲みこみした。仁右衛門は小屋の真中に突立って隅から隅まで目測でもするように見廻した。二人は黙ったままでつまごを・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・ 私達は、さらに、漂浪の詩人に、郷土のなつかしまれたのを知る。レエルモントフのコウカサスに於ける、薄倖の革命詩人、レヴィートフの中央ロシヤの平原に於けるそれであった。 彼等は、この広い天地に、曾て、自分を虐遇したとはいえ、少年時代を・・・ 小川未明 「彼等流浪す」
・・・ある時は単身でアペニンを越えて漂浪したりした。間もなく彼はチューリヒのポリテキニクムへ入学して数学と物理学を修める目的でスイスへやって来た。しかし国語や記載科学の素養が足りなかったので、しばらくアーラウの実科中学にはいっていた。わずかに十六・・・ 寺田寅彦 「アインシュタイン」
・・・ただ科学の野辺に漂浪して名もない一輪の花を摘んではそのつつましい花冠の中に秘められた喜びを味わうために生涯を徒費しても惜しいと思わないような「遊蕩児」のために、この取止めもない想い出話が一つの道しるべともなれば仕合せである。・・・ 寺田寅彦 「科学に志す人へ」
・・・かの茫漠たるステッペンやパンパスを漂浪する民族との比較を思い浮かべるときにこの日本の地形的特徴の精神的意義がいっそう明瞭に納得されるであろうと思われる。 この地質地形の複雑さの素因をなした過去の地質時代における地殻の活動は、現代において・・・ 寺田寅彦 「日本人の自然観」
・・・ 他郷に漂浪してもこの絵だけは捨てずに持って来た。額縁も古ぼけ、紙も大分煤けたようだが、「森の絵」はいつでも新しい。 寺田寅彦 「森の絵」
出典:青空文庫