・・・喜三郎は心配の余り、すぐにも医者を迎えたかったが、病人は大事の洩れるのを惧れて、どうしてもそれを許さなかった。 甚太夫は枕に沈んだまま、買い薬を命に日を送った。しかし吐瀉は止まなかった。喜三郎はとうとう堪え兼ねて、一応医者の診脈を請うべ・・・ 芥川竜之介 「或敵打の話」
・・・しかし彼等の生活も運命の支配に漏れる訣には行かない。運命はある真昼の午後、この平々凡々たる家庭生活の単調を一撃のもとにうち砕いた。三菱会社員忍野半三郎は脳溢血のために頓死したのである。 半三郎はやはりその午後にも東単牌楼の社の机にせっせ・・・ 芥川竜之介 「馬の脚」
・・・ 陳の唇を洩れる言葉は、妙に底力のある日本語であった。「誰?――婆や?――奥さんにちょいと出て貰ってくれ。――房子かい?――私は今夜東京へ行くからね、――ああ、向うへ泊って来る。――帰れないか?――とても汽車に間に合うまい。――じゃ・・・ 芥川竜之介 「影」
・・・いささかでも監督に対する父の理解を補おうとする言葉が彼の口から漏れると、父は彼に向かって悪意をさえ持ちかねないけんまくを示したからだ。彼は単に、農場の事務が今日までどんな工合に運ばれていたかを理解しようとだけ勉めた。彼は五年近く父の心に背い・・・ 有島武郎 「親子」
・・・ステインド・グラスから漏れる光線は、いくつかの細長い窓を暗く彩って、それがクララの髪の毛に来てしめやかに戯れた。恐ろしいほどにあたりは物静かだった。クララの燃える眼は命の綱のようにフランシスの眼にすがりついた。フランシスの眼は落着いた愛に満・・・ 有島武郎 「クララの出家」
・・・ 昼過きになると戸外の吹雪は段々鎮まっていって、濃い雪雲から漏れる薄日の光が、窓にたまった雪に来てそっと戯れるまでになった。然し産室の中の人々にはますます重い不安の雲が蔽い被さった。医師は医師で、産婆は産婆で、私は私で、銘々の不安に捕わ・・・ 有島武郎 「小さき者へ」
・・・熱いので明けてある窓からは人の呼吸が静かに漏れる。人は皆な寝て居るのだ。犬は羨ましく思いながら番をして居る。犬は左右の眼で交る交る寝た。そうして何か物音がする度に頭を上げて、燐のように輝く眼をみひらいた。種々な物音がする。しかしこの春の夜の・・・ 著:アンドレーエフレオニード・ニコラーエヴィチ 訳:森鴎外 「犬」
・・・見ると、顔の色が真蒼になるとともに、垂々と血に染まるのが、溢れて、わななく指を洩れる。 俊吉は突伏した。 血はまだ溢れる、音なき雪のように、ぼたぼたと鳴って留まぬ。 カーンと仏壇のりんが響いた。「旦那様、旦那様。」「あ。・・・ 泉鏡花 「第二菎蒻本」
・・・ 露路の長屋の赤い燈に、珍しく、大入道やら、五分刈やら、中にも小皿で禿なる影法師が動いて、ひそひそと声の漏れるのが、目を忍び、音を憚る出入りには、宗吉のために、むしろ僥倖だったのである。 八「何をするんですよ・・・ 泉鏡花 「売色鴨南蛮」
・・・奥の間でお通夜してくれる人たちの話し声が細々と漏れる。「いつまで見ていても同じだから、もう上がろうよ」 といって先に立つと、提灯を動かした拍子に軒下にある物を認めた。自分はすぐそれと気づいて見ると、果たして亡き人の着ていた着物であっ・・・ 伊藤左千夫 「奈々子」
出典:青空文庫