・・・然るに歳漸く不惑に入った頃、如何なる風の吹き廻しにや、友人の推輓によってこの大学に来るようになった。来た頃は留学中の或教授の留守居というのであったが、遂にここに留まることとなり、烏兎怱々いつしか二十年近くの年月を過すに至った。近来はしばしば・・・ 西田幾多郎 「或教授の退職の辞」
・・・我々はニイチェを読み、考へ、漸く今、その正しい理解の底に達し得たと安心する。だがその時、もはやニイチェはそれを切り抜けて居る。彼は常に、読者の一歩前を歩いて居る。彼は永遠に捉へ得ない。しかもただ一歩で、すぐ捉へることができるやうに、虚偽の影・・・ 萩原朔太郎 「ニイチェに就いての雑感」
・・・ ――硝子なんかどうして入れといたんだ。 ――そりゃお前の方の勝手で入れたんじゃないか。 ――…… 医者は傷口に、過酸化水素を落とした。白い泡が立った。 ――ああ、電灯の。 漸く奴には分ったんだ。 ――あれが落ち・・・ 葉山嘉樹 「牢獄の半日」
・・・近年の男子中には往々此道を知らず、幼年の時より他人の家に養われて衣食は勿論、学校教育の事に至るまでも、一切万事養家の世話に預り、年漸く長じて家の娘と結婚、養父母は先ず是れにて安心と思いの外、この養子が羽翼既に成りて社会に頭角を顕すと同時に、・・・ 福沢諭吉 「女大学評論」
・・・が、露文学に依って油をさされて自然に発展して来たので、それと一方、志士肌の齎した慷慨熱――この二つの傾向が、当初のうちはどちらに傾くともなく、殆ど平行して進んでいた。が、漸く帝国主義の熱が醒めて、文学熱のみ独り熾んになって来た。 併し、・・・ 二葉亭四迷 「予が半生の懺悔」
・・・ふ慈母の恩慈母の懐抱別に春あり春あり成長して浪花にあり 梅は白し浪花橋辺財主の家 春情まなび得たり浪花風流郷を辞し弟に負て身三春 本をわすれ末を取接木の梅故郷春深し行々て又行々 楊柳長堤道漸くくれたり矯首はじめて見る故園・・・ 正岡子規 「俳人蕪村」
・・・(兵卒悄然(兵卒らこの時漸く饑餓を回復し良心の苛責に勝兵卒三「おれたちは恐ろしいことをしてしまったなあ。」兵卒十「全く夢中でやってしまったなあ。」兵卒一「勲章と胃袋にゴム糸がついていたようだったなあ」兵卒九「・・・ 宮沢賢治 「饑餓陣営」
・・・ 大層この頃は時候が悪い様だ、お節はどうして居ると云われた時に、漸く栄蔵はお君の事を話し出した。「同じ結核でも胸につきますよりは、腰骨についた方がよいようでございますから。と云って、主婦を驚ろかした。 骨盤結核だと聞・・・ 宮本百合子 「栄蔵の死」
・・・我官僚は初の間は虚名の先ず伝ったために、あるいは小説家を以て予を待ったこともあったが、今は漸くその非を悟ってくれたらしい。予と相交り相語る人は少いながら、一入親しい。予はめさまし草を以て、相更らず公衆に対しても語って居る。折々はまた名を署せ・・・ 森鴎外 「鴎外漁史とは誰ぞ」
・・・ 彼女は漸く起き上ると、青ざめた頬を涙で濡らしながら歩き出した。彼女の長い裳裾は、彼女の苦痛な足跡を示しつつ緞帳の下から憂鬱に繰り出されて曳かれていった。 ナポレオンの部屋の重々しい緞帳は、そのまま湿った旗のように明方まで動かなかっ・・・ 横光利一 「ナポレオンと田虫」
出典:青空文庫