・・・しかし疎らに生え伸びた草は何か黒い穂に出ながら、絶えず潮風にそよいでいた。「この辺に生えている草は弘法麦じゃないね。――Nさん、これば何と言うの?」 僕は足もとの草をむしり、甚平一つになったNさんに渡した。「さあ、蓼じゃなし、―・・・ 芥川竜之介 「海のほとり」
・・・が、海の近い事は、疎な芒に流れて来る潮風が明かに語っている。陳はさっきからたった一人、夜と共に強くなった松脂のにおいを嗅ぎながら、こう云う寂しい闇の中に、注意深い歩みを運んでいた。 その内に彼はふと足を止めると、不審そうに行く手を透かし・・・ 芥川竜之介 「影」
・・・我々の息吹きは潮風のように、老儒の道さえも和げました。この国の土人に尋ねて御覧なさい。彼等は皆孟子の著書は、我々の怒に触れ易いために、それを積んだ船があれば、必ず覆ると信じています。科戸の神はまだ一度も、そんな悪戯はしていません。が、そう云・・・ 芥川竜之介 「神神の微笑」
・・・それが静かな潮風に、法衣の裾を吹かせながら、浪打際を独り御出でになる、――見れば御手には何と云うのか、笹の枝に貫いた、小さい魚を下げていらっしゃいました。「僧都の御房! よく御無事でいらっしゃいました。わたしです! 有王です!」 わ・・・ 芥川竜之介 「俊寛」
・・・ 女房は連りに心急いて、納戸に並んだ台所口に片膝つきつつ、飯櫃を引寄せて、及腰に手桶から水を結び、効々しゅう、嬰児を腕に抱いたまま、手許も上の空で覚束なく、三ツばかり握飯。 潮風で漆の乾びた、板昆布を折ったような、折敷にのせて、カタ・・・ 泉鏡花 「海異記」
・・・みんなは、毎日、潮風にさらされているとみえて、顔の色が、火に映って、赤黒かった。そして、その人たちの話していることは、すこしもわからなかったが、私がゆくと、みんなは、私に、酒をすすめた。つい私は、二、三杯飲んだ。酒の酔いがまわると、じつにい・・・ 小川未明 「大きなかに」
・・・二人は海を見て立止った。潮風が二人の袂と裾を飜している。流石に、避暑地に来たらしい感もした。 夕飯の時、女は海の方を見て『今日は、波が高い』といったが、日本海の波をみている私には、この高いという波が、あまり静かなのに驚かされていた位であ・・・ 小川未明 「舞子より須磨へ」
・・・あらず、あらず、時は必ず来たるべし―― 大空隈なく晴れ都の空は煤煙たなびき、沖には真帆片帆白く、房総の陸地鮮やかに見ゆ、射す日影、そよぐ潮風、げに春ゆきて夏来たりぬ、楽しかるべき夏来たりぬ、ただわれらの春の永久に逝きしをいかにせん――・・・ 国木田独歩 「おとずれ」
・・・炉の火燃えつきんとすれども柴くべず、五十年の永き年月を潮風にのみ晒せし顔には赤き焔の影おぼつかなく漂えり。頬を連いてきらめくものは涙なるかも。屋根を渡る風の音す、門に立てる松の梢を嘯きて過ぎぬ。 翌朝早く起きいでて源叔父は紀州に朝飯たべ・・・ 国木田独歩 「源おじ」
・・・ 御最後川の岸辺に茂る葦の枯れて、吹く潮風に騒ぐ、その根かたには夜半の満汐に人知れず結びし氷、朝の退潮に破られて残り、ひねもす解けもえせず、夕闇に白き線を水ぎわに引く。もし旅人、疲れし足をこのほとりに停めしとき、何心なく見廻わして、何ら・・・ 国木田独歩 「たき火」
出典:青空文庫