・・・ ちょっと見には、つんとしてなにかかげの濃い冷い感じのある顔だったが、結局は疳高い声が間抜けてきこえるただの女だった。坂田のような男に随いて苦労するようなところも、いまにして思えば、あった。 あれはどないしてる? どないにして暮らし・・・ 織田作之助 「雪の夜」
・・・向こう岸には闇よりも濃い樹の闇、山の闇がもくもくと空へ押しのぼっていた。そのなかで一本椋の樹の幹だけがほの白く闇のなかから浮かんで見えるのであった。 これはすばらしい銅板画のモテイイフである。黙々とした茅屋の黒い影。銀色に浮かび出て・・・ 梶井基次郎 「温泉」
・・・I湾の濃い藍が、それのかなたに拡がっている。裾のぼやけた、そして全体もあまりかっきりしない入道雲が水平線の上に静かに蟠っている。――「ああ、そうですな」少し間誤つきながらそう答えた時の自分の声の後味がまだ喉や耳のあたりに残っているような・・・ 梶井基次郎 「城のある町にて」
・・・何のために引いたか、そもそもまたこの濃い青い線をこれらの句の下に引いたのは、いつであるか。『七年は経過せり』と自分は思わず独語した。そうだ。そうだ! 七年は夢のごとくに過ぎた。三 自分が最も熱心にウォーズウォルスを読んだ・・・ 国木田独歩 「小春」
・・・無造作で、精神的で、ささげる心の濃い娘を好むなら、そうした品性の青年なのだ。知性があって、質素で社会心のある娘を好むなら、そうした志向が青年にあるのだ。 娘に対して注文がないということは生への冷淡と、遅鈍のしるしでほめた話ではない。むし・・・ 倉田百三 「学生と生活」
・・・髪も、眉も、黒く濃い。唇は紅をつけたように赤かった。耳が白くて恰好がよかった。眼は鈴のように丸く、張りがあった。たゞ一つ欠点は、顔の真中を通っている鼻が、さきをなゝめにツン切られたように天を向いていることだ。――それも贔屓目に見れば愛嬌だっ・・・ 黒島伝治 「浮動する地価」
・・・ずいと東の方を見ますと、――今漕いでいるのは少しでも潮が上から押すのですから、澪を外れた、つまり水の抵抗の少い処を漕いでいるのでしたが、澪の方をヒョイッと見るというと、暗いというほどじゃないが、よほど濃い鼠色に暮れて来た、その水の中からふっ・・・ 幸田露伴 「幻談」
・・・塾の庭にある桜は濃い淡い樹の影を地に落していた。谷づたいに高瀬は独り桑畠の間を帰りながら、都会から遁れて来た自分の身を考えた。彼が近い身の辺にあった見せかけの生活から――甲斐も無い反抗と心労とから――その他あらゆるものから遁れて来た自分の身・・・ 島崎藤村 「岩石の間」
・・・店の食卓も、腰掛も、昔のままだったけれど、店の隅に電気蓄音機があったり、壁には映画女優の、下品な大きい似顔絵が貼られてあったり、下等に荒んだ感じが濃いのであります。せめて様々の料理を取寄せ、食卓を賑かにして、このどうにもならぬ陰鬱の気配を取・・・ 太宰治 「老ハイデルベルヒ」
・・・ 戸内を覗くと、明らかな光、西洋蝋燭が二本裸で点っていて、罎詰や小間物などの山のように積まれてある中央の一段高い処に、肥った、口髭の濃い、にこにこした三十男がすわっていた。店では一人の兵士がタオルを展げて見ていた。 そばを見ると、暗・・・ 田山花袋 「一兵卒」
出典:青空文庫