・・・彼等は手をつないだまま、もう浅瀬へはいっていた。浪は彼等の足もとへ絶えず水吹きを打ち上げに来た。彼等は濡れるのを惧れるようにそのたびにきっと飛び上った。こう言う彼等の戯れはこの寂しい残暑の渚と不調和に感ずるほど花やかに見えた。それは実際人間・・・ 芥川竜之介 「海のほとり」
・・・…… 年増分が先へ立ったが、いずれも日蔭を便るので、捩れた洗濯もののように、その濡れるほどの汗に、裾も振もよれよれになりながら、妙に一列に列を造った体は、率いるものがあって、一からげに、縄尻でも取っていそうで、浅間しいまであわれに見える・・・ 泉鏡花 「瓜の涙」
・・・ひょろひょろの小僧は、叩きつけられたように、向う側の絵草紙屋の軒前へ駆込んだんです。濡れるのを厭いはしません。吹倒されるのが可恐かったので、柱へつかまった。 一軒隣に、焼芋屋がありましてね。またこの路地裏の道具屋が、私の、東京ではじめて・・・ 泉鏡花 「木の子説法」
・・・と驚いたが、抱く手の濡れるほど哀れ冷汗びっしょりで、身を揉んで逃げようとするので、さては私だという見境ももうなくなったと、気がついて悲しくなった。「しっかりしておくれ、お米さん、しっかりしておくれよ、ねえ。」 お米はただ切なそうに、・・・ 泉鏡花 「政談十二社」
・・・ 両手を炬燵にさして、俯向いていました、濡れるように涙が出ます。 さっという吹雪であります。さっと吹くあとを、ごうーと鳴る。……次第に家ごと揺るほどになりましたのに、何という寂寞だか、あの、ひっそりと障子の鳴る音。カタカタカタ、白い・・・ 泉鏡花 「雪霊続記」
・・・「ああ、縁台が濡れる。」 と、お町の手を取って、位置を直して、慎重に言った。「それにね、首……顔がないんです。あの、冷いほど、真白な、乳も、腰も、手足も残して。……微塵に轢かれたんでしょう。血の池で、白魚が湧いたように、お藻代さ・・・ 泉鏡花 「古狢」
・・・私はふと濡れるような旅情を感ずると、にわかに生への執着が甦ってきました。そしてふと想いだした文子の顔は額がせまくて、鼻が少し上向いた、はれぼったい瞼の、何か醜い顔だった。キンキンした声も二十四の歳にしては、いやらしく若やいでいる……。 ・・・ 織田作之助 「アド・バルーン」
・・・ 溺死人、海水浴、入浴、海女……そしてもっと好色的な意味で、裸体というものは一体に「濡れる」という感覚を聯想させるものだが、たしかにこの際の雨は、その娘の一糸もまとわぬ姿を、一層なまなましく……というより痛々しく見せるのに効果があった。・・・ 織田作之助 「夜光虫」
・・・着物が濡れると大変です。娘は立ちどまって細い頸をゆっくりねじ曲げ、次郎兵衛の姿を見るとやわらかいまっ白な頬をあからめた。お待ち。そう言い置いて次郎兵衛は居酒屋へ引返して亭主を大声で叱りつけながら番傘を一ぽん借りたのである。やいお師匠さんの娘・・・ 太宰治 「ロマネスク」
・・・傘は一本さすのも二本さすのも、濡れることは同じだからと言って、相合傘の竹の柄元を二人で握りながら、人家の軒下をつたわり、つたわって、やがて彼方に伊予橋、此方に大橋を見渡すあたりまで来た時である。娘は突然つまずいて、膝をついたなり、わたくしが・・・ 永井荷風 「雪の日」
出典:青空文庫