姓氏の一。
せがわきくのじょう【瀬川菊之丞】
歌舞伎俳優。屋号、浜村屋。俳名、路考。 (初世)[1693〜1749]初め京坂、のち江戸でも活躍した女方の名人。初世芳沢あやめとともに女方芸の基礎を築いた。浜村屋路考。 (2世)[1741〜1773]初世の養子。宝暦・明和(1751〜1772)ごろ、江戸で若女方として人気を博した。王子路考。 (3世)[1751〜1810]2世の養子。天明・寛政(1781〜1801)ごろ、江戸で活躍した名女方。仙女路考。 (5世)[1802〜1832]3世の孫。文化・文政(1804〜1830)ごろ、江戸で女方として活躍。多門路考。 (6世)[1907〜1976]瀬川久次郎の養子となり瀬川家を再興。前進座に属し、女方・二枚目から実悪・老け役まで広い芸域をこなした。
せがわじょこう【瀬川如皐】
[1806〜1881]江戸末期の歌舞伎作者。3世。江戸の人。5世鶴屋南北の門下で、中村座の立作者となった。作「与話情浮名横櫛 (よわなさけうきなのよこぐし) 」「東山桜荘子 (ひがしやまさくらそうし) 」など。
せがわぼうし【瀬川帽子】
江戸時代に流行した婦人用の綿帽子の一。享保19年(1734)歌舞伎俳優の初世瀬川菊之丞が、屋敷女中の役でかぶったのが最初といわれる。
出典:gooニュース
小芝風花“瀬川”が“瀬以”となって登場、市原隼人“鳥山検校”の深過ぎる愛に視聴者注目<べらぼう>
こんなの瀬川だって迷惑でしょう」と立ち上がろうとしたとき、瀬川が現われた。 「重三!」となじみの呼び方をして顔をほころばせる瀬川。その姿は、着物も髪型もすっかり変わっていて、“ご新造”と呼ばれる裕福な家の妻の雰囲気になっていた。 それでも蔦重、大文字屋という、なじみの2人との会話ははずみ、花魁言葉でも丁寧な言葉遣いでもなく、素の感じで朗らかな笑い声を上げた。
「五代目瀬川」は1億4000万円で身請けされたが…伝説の花魁の人生に影を落とす盲目の大富豪の"あくどい錬金術"
花魁たちを描いたこの錦絵本には、吉原を去る瀬川も描かれていた。蔦重は瀬川にいった。「俺ぁここを楽しいことばかりのとこにしようと思ってんだよ。売られてきた女郎がいい思い出いっぺえ持って、大門を出てけるとこにしたくてよ」。それこそが、自分と瀬川がいだいてきた夢じゃないのか、というのだ。 「俺と花魁(瀬川のこと)をつなぐもんは、これしかねえから。
千葉Jの瀬川琉久「反省の方が多かった」13分8得点で勝利貢献も課題言及
この試合には、東山高校から加入した瀬川琉久が途中出場。13分ほどのプレータイムで8得点4リバウンド2アシストを記録する活躍を見せ、勝利に貢献した。 試合について、瀬川は「個人的に今日の得点はリバウンドからというのが多かったんですけど、後半に冷静な判断ができていなかったっていうところがあったので今後の課題だと思っています。
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