・・・ 僕等はもう船の灯の多い黄浦江の岸を歩いていた。彼はちょっと歩みをとめ、顋で「見ろ」と云う合図をした。靄の中に仄めいた水には白い小犬の死骸が一匹、緩い波に絶えず揺すられていた。そのまた小犬は誰の仕業か、頸のまわりに花を持った一つづりの草・・・ 芥川竜之介 「彼 第二」
・・・何処の小屋にも灯はともされずに、鍋の下の囲炉裡火だけが、言葉どおりかすかに赤く燃えていた。そのまわりには必ず二、三人の子供が騒ぎもしないできょとんと火を見つめながら車座にうずくまっていた。そういう小屋が、草を積み重ねたように離れ離れにわびし・・・ 有島武郎 「親子」
・・・路もない、雲に似て踏みごたえがあって、雪に似て冷からず、朧夜かと思えば暗く、東雲かと見れば陰々たる中に、煙草盆、枕、火鉢、炬燵櫓の形など左右、二列びに、不揃いに、沢庵の樽もあり、石臼もあり、俎板あり、灯のない行燈も三ツ四ツ、あたかも人のない・・・ 泉鏡花 「伊勢之巻」
・・・行燈の灯も薄暗く、母はひったり枕に就いて臥せって居る。「お母さん、どうかしましたか」「あア政夫、よく早く帰ってくれた。今私も起きるからお前御飯前なら御飯を済ましてしまえ」 僕は何のことか頻りに気になるけれど、母がそういうままに早・・・ 伊藤左千夫 「野菊の墓」
・・・そして、かたわらの小さな家から、ちらちらと灯がもれていました。年子は、刹那の後に展開する先生との楽しき場面を想像して、胸をおどらしながら入ってゆきました。 先生のお母さんらしい人が、夕飯の仕度をしていられたらしいのが出てこられました。そ・・・ 小川未明 「青い星の国へ」
・・・して、最早大分夜も更けたから洋燈を点けた儘、読みさしの本を傍に置いて何か考えていると、思わずつい、うとうととする拍子に夢とも、現ともなく、鬼気人に迫るものがあって、カンカン明るく点けておいた筈の洋燈の灯が、ジュウジュウと音を立てて暗くなって・・・ 小山内薫 「女の膝」
・・・にぶいその灯のまわりに、秋の夜明けの寂けさが、暈のように集っていた。しみじみと遠いながめだった。夜露にぬれた道ばたには、高原の秋の花が可憐な色に咲いていた。私はしみじみと秋を感じた。暦ではまだ夏だったが……。 かつて、極めて孤独な時期が・・・ 織田作之助 「秋の暈」
・・・装飾品といって何一つない部屋の、昼もつけ放しの電灯のみが、侘しく眺められた。 永い間自分は用心して、子を造るまいと思ってきたのに――自然には敵わないなあ!――ちょうど一年前「蠢くもの」という題でおせいとの醜い啀み合いを書いたが、その・・・ 葛西善蔵 「死児を産む」
・・・ 誰一人の見送りとてない出発であった。最後の夕餉をしたためた食器。最後の時間まで照していたランプ。それらは、それらをもらった八百屋が取りに来る明日の朝まで、空家の中に残されている。 灯が消えた。くらやみを背負って母親が出て来た。五人・・・ 梶井基次郎 「過古」
・・・ 朝まだき、東の空ようやく白みしころ、人々皆起きいでて合羽を着、灯燈つけ舷燈携えなどして波止場に集まりぬ。波止場は事なかりき。風落ちたれど波なお高く沖は雷の轟くようなる音し磯打つ波砕けて飛沫雨のごとし。人々荒跡を見廻るうち小舟一艘岩の上・・・ 国木田独歩 「源おじ」
出典:青空文庫