・・・ 外へ出たが直ぐ帰えることも出来ず、さりとて人に相談すべき事ではなく、身に降りかかった災難を今更の如く悲しんで、気抜けした人のように当もなく歩いて溜池の傍まで来た。 全たく思案に暮れたが、然し何とか思案を定めなければならぬ。日は暮れ・・・ 国木田独歩 「酒中日記」
・・・ かれこれするうちに翌年の春になり、六蔵の身の上に不慮の災難が起こりました。三月の末でございました、ある日朝から六蔵の姿が見えません、昼過ぎになっても帰りません、ついに日暮れになっても帰って来ませんから田口の家では非常に心配し、ことに母・・・ 国木田独歩 「春の鳥」
・・・キューリー夫人のように自分の最愛の夫であり、唯一の科学の共働者であるものを突然不慮の災難によって奪い去らるる死別もあれば、ただ貧苦のためだけで一家が離散して生きなければならない生別もある。姉は島原妹は他国 桜花かや散りぢりに・・・ 倉田百三 「人生における離合について」
・・・ ――どうも、とんだ災難でございましたね。(と検事は芸術家に椅子を薦奥さんのおっしゃる事は、ちっとも筋道がとおりませんので、私ども困って居ります。一体、どういう原因に拠る決闘だか、あなたは、ご存じなんですね。 ――存じません。 ・・・ 太宰治 「女の決闘」
・・・これはいよいよ、災難である。こんな出鱈目が世の中にあるだろうか。いまは非難を通り越して、あきれたのである。ふと僕は彼の渡り鳥の話を思い出したのだ。突然、僕と彼との相似を感じた。どこというのではない。なにかしら同じ体臭が感ぜられた。君も僕も渡・・・ 太宰治 「彼は昔の彼ならず」
・・・全くの災難である。東京での、いろいろの恐怖を避けて、甲府へこっそりやって来て、誰にも住所を知らせず、やや、落ちついて少しずつ貧しい仕事をすすめて、このごろ、どうやら仕事の調子も出て来て、ほのかに嬉しく思っていたのに、これはまた、思いも設けぬ・・・ 太宰治 「新樹の言葉」
・・・ それから後にも家族連れの海水浴にはとかく色々の災難が附纏ったような気がする。そのうちにまた自分が病気をしてうっかり海水浴の出来ないようなからだになったので、自然に夏の海とは縁が遠くなってしまった。 四歳のときにひどく海を嫌ったのが・・・ 寺田寅彦 「海水浴」
・・・案内人なしにいい加減な道を歩いていると道に迷うてとんでもない災難に会わなければならない。 案内人として権威の価値は明らかであるが、同時に案内人の弊害もある事は割合に考える人が少ない。 通りすがりの旅人が金閣寺を見物しようとするには案・・・ 寺田寅彦 「科学上における権威の価値と弊害」
・・・落雷の災害などと比較されてもいいようなきわめて稀有な偶然のなすわざで、たまたまこの気まぐれな偶然のいたずらの犠牲になった生徒たちの不幸はもちろんであるが、その責任を負わされる先生も土地の人も誠に珍しい災難に会ったのだというふうに考えられない・・・ 寺田寅彦 「災難雑考」
・・・癪に障って忌々しいが叱り飛す張合もない。災難だと諦めた。乗り合わした他の連中は頻に私に同情して、娘とその伴の図々しい間抜な態度を罵った。飛沫を受けたので、眉を顰めながら膝を拭いている婆さんや、足袋の先を汚された職人もいたが、一番迷惑したのは・・・ 永井荷風 「深川の散歩」
出典:青空文庫